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開拓使時代の景観

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 開拓使は明治十四年の天皇行幸の前に、札幌市街の町屋地を何枚か撮影した。そのうちの数枚は、現南一条東三丁目の北海道神宮屯宮から北・西・南をパノラマ的に展望したものである(市史 第二巻 一七八頁折込写真参照)。写真下方の左右の道路が現東三丁目通、中央に西方へ延びている道路は現南一条通である。道路が両側の低い家屋に比べ異常に広く見える。きわめて貧しい光景といえる。当時千歳や室蘭から札幌へ訪れる旅人は、豊平川を渡って写真下方の道路か、一本西の東二丁目通を経て南一条通へ進んだ。写真に写る家屋は当時の主要道路沿い一帯の民家の景況に当たっている。
 写真でまず注目されるのは、町屋地には官用地と違って大樹が見られない。建物で目に付くのはほとんどが平屋建で、傾斜のゆるい石置き屋根である。屋根の形式は切妻造ばかりである。軒高が低いのは当時の民家の特徴のひとつである。紙張建具だけでガラスの使用は見られない。「シトミ戸」と呼ばれる落とし戸の横長の建具を使っているのも特色である。
 石を屋根の上にのせるのは、屋根板(コケラ)のずり落ち防止と反り返りを防ぐ重しである。屋根板を釘止めしなかったためで、開拓使が明治二年から四年にかけて創成川河畔に建てた開拓使仮庁や官舎も、この工法で屋根を葺いた。当時、道内の松前、江差、函館、根室などの家屋はこの石置き屋根であった。本州でも信州や北陸、東北の日本海沿岸の民家に広く用いられていた。『さっぽろの昔話』は豊平川の河原から拾った石をのせたと伝える。
 明治六年後半以降の開拓使の建築の屋根は、アメリカから輸入の機械製のシングル(開拓使の呼称は〈機械柾〉)で葺き、釘止めとした。シングルは国内では札幌の開拓使工場(工作所と厚別水車器械所)で製造し、開拓使廃止後生産を中絶し姿を消す。農学校演武場(時計台)や豊平館はこの機械柾で葺いた。町屋地の民家のコケラ板葺よりも美しく葺き上がり、釘止めのため保守の面でも優れたものであった。だが高価につくため、明治二十年に入る頃から釘止めの手割厚柾葺に代わった。
 町屋の外壁は押縁下見張としていた。和風建築の伝統的構法で、横張の壁板上に縦方向に小幅な押縁を打つ形式である。釘をほとんど使わない点も、開拓使の洋風建築の下見張と異なっていた。写真の民家は内外二重の薄板張で、真壁(土壁)ではないとみられている。北日本の沿岸の漁家では、当時普遍的な構造形態であった。官用地の洋風建築はわが国では珍しい特異な建築形式であった。しかし町屋地の建築は、明治二十年頃から官の建築の洋風手法を取り入れるようになり、変容していく。