札幌のレンガ造建築の第一号は、開拓使札幌本庁舎の付属舎内に建った御金蔵と書籍蔵である。『開拓使事業報告』(以下事業報告と略)第二編〔土木〕の「家屋表」によれば、明治六年八月起工し十月に完成、御金蔵が五平方メートル弱、書籍蔵が八・三平方メートルのごく小規模の建物である。記録で明らかになっている本道の最初のレンガ造建築であるとともに、全国的にみてもごく少数の事例しか存在しなかった時代のレンガ造建築である。
『事業報告』第二編「開拓使本庁之図」が示すように、札幌本庁舎本館の後方(西側)、Y字形の廊下で接続する西北側の木造洋館の付属舎の中に、御金蔵と書籍蔵が並んで建っていた。外囲いの家屋内に建つため、外からはレンガ壁面を見ることができなかった。上家に収めたのは、本館の意匠との調和の配慮よりも、レンガ壁面の凍害を慮った設計であったとみられる。
レンガは開拓使茂辺地煉化石製造所の官業製品である。この施設は『開拓使布令類聚』(上編)製造の項の明治五年四月三十日に「今般茂辺地に煉化石製造所建築ス」と記述する施設である。函館郊外、現在の上磯町字茂辺地の台地上の矢不来神社境内隣接地に所在した。同製造所の初期のレンガは焼成温度が低く軟質であった。当然吸水率は大きかった。建築材料としてのレンガの知識が乏しかった時代である。開拓使函館支庁は操業直後の低質のレンガを用いて、明治五年函館豊川町に常備倉(備蓄米の倉庫)四棟の建設に着手する(事業報告 第二編土木)。工事は三棟の壁体を積み終わった段階で冬を迎える。露出したままに置いたためか激しく凍害を受け、レンガの表面が二重三重に剝離し、「ボロボロになり、廃虚となった」(工部省御雇外国人・灯台技師ブラントンの指摘、菊地茂郎 御傭外人技師 R. H. Bruntonの〝日本建築論〟と在留外人のこれに対する所見について)。結局製造法を改善した〝精製煉化〟で全面的に積み直し、明治七年工事を終える。
この被害は札幌本庁工業局にも聞こえたはずである。開拓使札幌本庁舎の御金蔵、書籍蔵のレンガ造を上家の中に収め、雨水のあたらぬ〝箱入り娘〟のように扱う設計は、この情報に基づき採用されたと解される。いま一つ、軟質なレンガは茂辺地の台地上から函館、小樽経由で札幌へ回送された。輸送途中の、特に馬搬、舟便の際の積み替えで、レンガ材料の生命である隅角部を欠損したものが多かったとみられる。そのため組み積みの壁面の仕上りが醜くなることを隠す意図を込めた上家であったかもしれない。