戸長役場期の篠路村は、明治三十二年七月一日に苗穂・丘珠・札幌・雁来・篠路の五カ村戸長役場から分離されて、新たに同村に戸長役場が設置された。篠路村は人口も多く村域が広く、しかも屯田兵村をかかえ他の四村とは村事情が異なることが分離の理由であった。「将来移民益々増殖の状況」(道毎日 明32・5・19)と発展が期待された篠路村ではあったが、分立以後、逆に人口は減少を続ける一方であった。その大きな原因は水害である。後述のように連年にわたる水害により村は痛め付けられ、村民は疲弊し人口が激減していった。
たとえば三十二年は一〇二四戸、五一四三人であったものが、三十六年には八〇二戸、三八九七人となり、さらに三十八年には六六九戸、三七五八人となるように、大水害のたびごとに人口は減少を続けていた。大正十年に至っては四五六戸、二八三九人まで落ちこんでおり、最大期の明治三十二年の戸数で四割五分、人口で五割五分程となっていた。