篠路村はその後も度々水害に痛めつけられ、大きな被害を出している。三十五年五月は農地二五〇〇町歩が冠水し、三十七年七月は三二〇〇町歩、二七二戸の浸水被害(避難戸数は一二八戸)と報道されている。続報では三六〇〇町歩、六〇〇戸以上の見込とされ(北タイ 明37・7・14、15)、相当な被害を出していた。また札幌警察署の調査では浸水被害は、茨戸太三〇町・二〇戸、札幌太六〇町・四戸、兵村一〇〇町、横新道二〇町、当別太六〇町、興産社五〇町とされ(北タイ 明37・7・22)、兵村が一番の被害となっていたようである。続いて四十一年四月は床上一七二戸、床下七四戸、農地一〇九五町(北タイ 明41・5・8)、大正五年五月には床上九〇戸、床下七戸、農地一〇九五町という具合に浸水被害を出し(北タイ 大5・5・12)、この他にも毎年、融雪期の五月には小規模の冠水があった。