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水害

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 白石村の北部は望月寒、月寒、厚別、三里、野津幌川など豊平川に注ぐ小河川が形成した冲積地となっているが、その反面、低湿地が非常に多かった。函館本線以北はほとんどが湿地であるといってもよかった。この地形的な条件を利用して早くから水稲栽培が行われ、道内でも有数の米産地となっていった。
 この一方では、水害も頻繁におこり、洪水による被害も甚大であった。三十一年の大洪水は白石村では戸数の四割、上白石村では三分の一が村外に転住するというほどの被害を出していた。特に豊平川に面した白石村で米里、上白石村では岡田開墾と呼ばれた菊水上町付近が水害地帯であった。米里は望月寒川と月寒川が合流して逆川となって豊平川に注ぐ地域であり、逆川の名のとおり豊平川の水が逆流して洪水となることがたびたびであった。三十五年五月の洪水の場合、「豊平川一丈二尺余の増水となり各所の堤防破壊せし為め三里四方浸水し、宛然(さながら)一面湖水の如く家屋の床上まで浸水せるもの四十四戸、何れも避難する処なく屋根を破ふりて屋上に免かれ生命を全ふするを得たる……」と報道されている(北タイ 明治35・5・27)。米里の水害は三十七年、四十三年にも起きており、そのたびに「一面湖水の如く」なっていたと思われる。後述の報道では、米里にはもと一二一戸があったというが、おそらく明治三十年頃のことであり、それがそれ以降のたび重なる水害により、大正三年には五〇戸にまで減少していたのである。