明治末まで畜産において大きな位置を占めた大規模牧場の、大正元年の実態を札幌郡について示したのが表29である。表出しなかったが、札幌(
石狩)支庁の牧場数は二〇であり、放牧地が二五七八町、採草地が六〇二町、耕地が三〇四町であり、その合計は三四八四町、一牧場当たり一七四町の規模である。放牧頭数については、牛が五九三頭、馬が三六六頭であり、一牧場当たり合計で四八頭となっている。札幌については牧場数が八、うち馬牧場が三、牛牧場が一、牛馬牧場が三となっている。残りの一牧場は飼養を中止しており、牧場の後退傾向が現れている。農用地は、放牧地が四三八町(平均五五町)、採草地が二七八町(同三五町)、耕地が一一〇町(同一四町)であり、合計では八二五町(同一〇三町)となっている。放牧頭数は牛が三七八、馬が二五〇であり、合計は六二八頭、平均で七八頭となっている。
牧場名 | 所在地 | 面積 | 放牧頭数 | 資本金 | 年間経費 |
放牧地 | 採草地 | 耕地 | その他 | 合計 | 牛 | 馬 | 計 |
前田支場 | 篠路 | 204.7町 | 59.5町 | 39.8町 | 16.7町 | 320.7町 | 150頭 | 160頭 | 310頭 | 49,126円 | 2,450円 |
斉藤兄弟 | 琴似 | 12.0 | | | | 12.0 | | 43 | 43 | 1,800 | 141 |
前田本場 | 豊平 | 104.4 | 63.0 | 37.4 | 1013.3 | 1218.1 | 142 | 8 | 150 | 124,845 | 21,577 |
小林 | 豊平 | 30.0 | 25.0 | 16.0 | 18.0 | 89.0 | | 12 | 12 | 18,000 | 1,300 |
吉田 | 豊平 | 30.0 | 80.0 | | | 110.0 | 50 | | 50 | 24,500 | 4,500 |
阿部 | 豊平 | 16.0 | 10.0 | 8.0 | 2.0 | 36.0 | 36 | 5 | 41 | 19,900 | 3,580 |
嵯峨 | 豊平 | 10.0 | 40.0 | 5.0 | 3.0 | 58.0 | | 22 | 22 | 35,000 | 3,000 |
吉田 | 豊平 | 31.0 | | 4.0 | | 35.0 | | | 6 | 15,000 | 500 |
前田農場の本支場を除くと、牛中心の牧場は吉田、
阿部牧場であり、創設はともに明治四十二年であり、種牡牛を有し、繁殖中心の経営を行っている。馬牧場は、斉藤兄弟、小林、嵯峨の各牧場であるが、その創設は明治十八年、三十六年、三十七年と牛牧場より古く、ここでも繁殖経営を行っている。牛・馬牧場ともにブリーダー経営に転換ないし参入したものということができる(本邦牧場一班)。
前田農場は、旧加賀藩主の
前田利嗣が明治二十七年(茨戸支場)、二十八年(
軽川本場)に大農式直営農場を購入し、さらに未墾地の開墾を行ったものであり、購入前の経営方式を引継いで育牛・農耕の直営を行うとともに札幌、小樽の乳牛場を根拠地とした市乳販売を行い、一部は小作制を採用していた。しかし、三十年代に入ると直営部門は育牛部門中心に転換し、アメリカから種牝牡牛を輸入してエアーシャー種専門の優良種牛、乳牛の生産販売体制が採られた(ブリーダー化)。四十四年の販売頭数は五八頭であり、販売額は九一五七円におよんだ。また、繁殖牛の増加により市乳販売にとどまらず、バター生産も行っていた。これは、後にも述べるブリーダー牧場の典型である(日本における大農場の生成と展開)。