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大正二年大凶作

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 図3の農産品卸売価格をみると、明治四十四年から玄米価格、白米価格が、四十五年から小豆価格が上昇している。この四十四年から大正二年にかけての農産品価格上昇の理由はよくわからないが、これをもって不況過程の終わりと見なすことも可能であろう。ところが大正二年に北海道を襲った大凶作は、その後の北海道経済に傷跡を残した。まず農村購買力が減退し、札幌の商業はふたたび沈滞した。玄米、白米価格は二年後半から三、四年にかけて下落した。これらは北陸からの移入品であるから購買力の減退により価格が下がったものと考えられる。一方北海道産である大豆、小豆、燕麦価格も三年後半に下落する。これはむしろ第一次世界大戦開始による世界農産物市場の価格低落の影響であろう。このように価格面では第一次世界大戦前およびその末期まで札幌では悪条件が続いていたのである。
 大正二年大凶作は、「凶作恐慌」とでもいうべき様相であった。農村はもちろん札幌区経済も多大な影響を受けた。札幌商業会議所はその影響を次のように指摘した。
札幌区商工業者の仕入が、例年より困難の度を一層加へたる原因とも観るべきは、本道の凶作の声が内地都市に於て余り太だしく喧伝せられたるに在るなきや。蓋し内地の卸問屋又は材料供給者は、本道の商工業者に対する送荷又は供給の警戒を為し、送荷を手控へられたるの観あり。為めに区内に於ける商工業者の一層の困難を致し、益々不景気に不景気を添へたるの観なからずや。
(北タイ 大3・6・28)

すなわち大凶作の評判が、内地問屋の札幌商人に対する信用を減退させ、送荷の減少となったというのである。このことが事実とすれば先の図1にみられた大正三年の鉄道到着貨物数量の激減と照応している。農村経済と緊密な関係をもつ札幌商業界は凶作の直接的影響のみならず間接的な影響をも受けなければならなかったのである。