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不動産抵当貸付の意義

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 開業初期の拓銀は、不動産抵当貸付請求に対して三〇パーセント程度の採択率であった。そのため地主、農場主から「酷烈なる貸出」であると非難された。これに対して拓銀初代頭取曽根静夫は明治三十三年十二月に次のように反論した。
余と雖決して無法に貸出を厳にせんと欲するものに非ず。然りと雖本道の耕地に就て多少内地と事情を異にする特種の点あるを知らんには、何人と雖厳にせざるを得ず。試みに北海道なるものゝ耕地を見よ、一見実に驚くべき程の良地と信じ得べきもの少からずと雖、之が耕耘に従ふところの小作人なるものは数百年来同一の土地を耕し居る内地小作人の比に非ずして、彼等の多くは苟くも今日従事し居る土地よりも、更に収穫多き土地あるを見るときは忽ち之を捨てゝ他に赴くこと太古人の水草を追ふて転々するに異ならず。故に今日迄は如何にも申分なき耕地も、明日は拠なく之を荒廃に帰せしめざる能はず。之れ抵当として極めて危険なるものゝ一なり。
(小樽新聞 明33・12・4)

 曽根頭取は、これに続けて北海道の農民の土地改良投資や治水が不十分なこと、交通機関の整備が未定なため、町村の将来地価が予測困難であることを挙げている。しかしここに指摘された理由は、いずれも北海道農業の基本的特質に関わることであり、一朝一夕に解決されるものではなかった。ここでは当該期北海道における不動産抵当金融が、かなり困難な事情をかかえていたことを確認しておきたい。
 表16は、北海道における土地抵当貸付の全貌をまとめたものである。貸付主体を「一般個人」「普通銀行会社」「勧銀」(日本勧業銀行)「拓銀」の四者に分けている。「一般個人」の大部分と「普通銀行会社」の一部にいわゆる高利貸資本を含むと考えられる。まず、右欄の土地抵当貸付金にしめる四者の割合をみてみよう。明治三十三年には一般個人と普通銀行会社がその担い手の大部分であった。これ以後、両者の比率は傾向的に低下し、普通銀行会社の方は、第一次世界大戦期に再び上昇している。勧銀の比率は停滞→低下をたどり、拓銀は上昇を続け、日露戦後には三割台に達し、第一次世界大戦期にやや低下する。拓銀の土地抵当貸付の展開が、相対的に一般個人、普通銀行会社の領域を縮小させたのである。
表-16 金融機関別土地抵当貸付 (単位;千円/%)
一般・個人普通銀行・会社
一番抵当貸付金額うち三区比率二番以下のうち最多一番抵当機関同左貸付金額貸付金額一番抵当貸付金額うち三区比率二番以下のうち最多一番抵当機関同左貸付金額貸付金額
明33年3,77744.0一般・個人5044,5583,44577.1普銀・会社3523,923
344,42740.5一般・個人6395,4143,37376.4普銀・会社4434,006
354,83739.7一般・個人7756,1313,23076.1普銀・会社4134,003
364,96336.3一般・個人9756,4663,34774.9普銀・会社6785,131
374,76536.6一般・個人9616,3653,30769.7勧銀7035,194
384,87435.8一般・個人8546,5143,38566.7勧銀7855,308
395,30426.9一般・個人8087,3083,67369.6晋銀・会社6194,923
406,43119.7拓銀1,1549,1183,68470.8普銀・会社7535,176
418,22723.2拓銀2,88312,6454,02967.8普銀・会社8946,152
428,51318.0拓銀3,08814,1844,78164.5晋銀・会社7296,579
438,10018.4拓銀3,65714,4135,62759.9拓銀1,0187,867
447,93216.3拓銀3,82914,6106,18554.8拓銀1,0038,716
457,91816.3拓銀4,36315,5326,64451.2拓銀1,1399,624
大2 8,03815.5拓銀5,36616,9517,00946.6拓銀1,36610,106
39,01413.7拓銀6,39919,2477,27042.1拓銀1,55710,661
48,78614.4拓銀6,42018,9097,30038.8拓銀1,54510,933
715,9377.1拓銀5,64123,85832,8809.7拓銀1,78636,022
821,1746.1拓銀9,12234,34437,39111.5拓銀3,01542,832
926,2396.8拓銀13,62446,24041,40611.4普銀・会社4,71451,683
 
勧銀拓銀土地抵当貸付金額合計合計にしめる比率
一番抵当貸付金額うち三区比率一番抵当貸付金額うち三区比率一般個人普銀会社勧銀拓銀
明33年8194.2633? 9,93445.939.58.26.4
3492512.91,378? 11,72346.234.27.911.8
351,20521.01,765? 13,10446.830.59.213.5
361,58631.32,131? 15,31442.233.510.413.9
371,54632.12,701? 15,80740.332.99.817.1
381,59531.13,513? 16,93038.531.49.420.8
391,55928.44,523? 18,31239.926.98.524.7
401,59937.16,896? 22,87939.922.67.030.1
411,82449.08,454? 29,05743.521.26.329.1
422,30346.910,668? 33,73542.019.56.831.6
432,72846.211,770? 36,77839.221.47.432.0
443,71436.013,91724.340,95835.721.39.134.0
453,78735.716,13323.145,07734.521.48.435.8
大2 4,01732.719,12720.550,20133.820.18.038.1
34,05032.721,70818.755,06635.019.47.439.4
43,98133.321,22316.155,04734.419.97.238.6
74,01418.531,65815.495,55325.037.74.233.1
85,17216.743,52014.7125,86827.334.04.134.6
96,01213.061,44415.2165,37828.031.33.637.2
北海道拓殖銀行『北海道主要地土地抵当貸付金調』(明32年末~大2),同(大5),
『北海道土地抵当貸付金高調』(大10)より作成。

 次にこれら四者の相互関係をみてみよう。勧銀、拓銀は一番抵当の場合にしか貸付できなかったが、一般個人、普通銀行会社は、他の金融機関が一番抵当を付した後にも二番抵当以下で貸付をしている。これら民間金融機関が、二番抵当以下のケースで一番抵当がどの金融機関であったのかを示したのが、「二番以下のうち最多一番抵当金融機関」の欄である。一般個人では、明治三十九年までは、一番抵当を付した金融機関も一般個人である場合が多かったが、四十年以降、拓銀にかわっている。普通銀行会社では、やはり四十三年以降、拓銀が一番抵当を付しているケースが多くなっている。このことから推測できることは、当初一般個人、普通銀行会社はそれぞれ別々の市場をもち、借り手の側からみれば一番抵当も二番抵当も一般個人(あるいは普通銀行)というケースが多かった。ところが、拓銀の土地抵当貸付への進出は、拓銀が鑑定し融資した地主・農場主に、民間金融機関が追加的に融資するという関係を生み出した。このことは斉藤仁の研究にも指摘されているが、それに対する斉藤の評価は、拓銀の土地抵当貸付は高利貸(一般個人、普通銀行会社)の鑑定業務を代行したようなもので、高利貸、普通銀行の融資部面は広範に残り、これらを排除することはできなかったと否定的である。しかし、道内の土地抵当貸付需要に拓銀のみが応じるということは、現実には想定しがたい。また道内のどのような地域に貸付が展開したのかをも含めて評価する必要がある。
 そこで、表の「三区比率」をみてみよう。一番抵当のケースのみだが、普通銀行会社や一般個人は、当初土地抵当貸付を主として函館・小樽・札幌の三区で行っていた。言い換えればこれらは都市の商工業者への貸付であったと思われる。ところが、拓銀は勧銀とともにその本来の任務にしたがって三区以外(農村部)への貸付が多かった。民間金融機関が、拓銀の一番抵当を追いかける形で二番抵当を付すことにより、農村部へ進出したものと思われる。そのことの結果として、民間金融機関の一番抵当の場合でも、三区比率は低下しているのである。すなわち、拓銀の農業金融の結果、民間金融機関の土地抵当貸付も、三区の商工業金融中心のものから漸次地方へと拡大したということが推測できるのである。