道庁は、貯銀休業直後には拓銀美濃部頭取、貯銀磯谷頭取とともに大蔵省への救済請願を行うなど、貯銀救済への動きがみられた。しかし、大蔵省の救済が却下された後は、特に表立った意思表示をした形跡がない。ところが、株主協議会で整理案第二次案が決議されると、九月十五日に貯銀重役を道庁に呼び、整理案では預金据置は明示されているが、欠損金の回収計画や当面の営業資金の手当はどうなっているのか、重役の財産提供の話はどうなったのか質問した。これに対して貯銀側は即答を避けている(北タイ 明41・9・17)。浜田部長は整理案を評して、「同行重役等は事実上の整理を行はんとするより寧ろ外観の彌縫に腐心せるものと思はる」と辛辣に批判した(北タイ 明41・9・19)。
これを受けて美濃部拓銀頭取は、貯銀の当面の営業資金援助に言及して「整理の方法が付けば十万や二十万の資金は供給するに辞せないが重役等の遣り方の拙いことは言はずとも知れ切ったことで愈資金を出すとなれば更に其内容に立ち入りて十分に精査を行ひ且亦現在の営業仕振は大改革を決行する必要がある」と述べた(北タイ 明41・9・22)。ここに貯銀重役・株主主導の整理案から、拓銀・道庁主導の整理案作成へと事態が進展したのである。
道庁の介入に対し、当初貯銀の重役や救済委員会は激しく反発した。しかし、貯銀作成の整理案(第二次案)は、当面の運転資金をどうするのか明確に示されず、預金据置の比率のみ明らかにして矛盾を将来に先送りするものであった。これに対して道庁の見解は、やり方はやや乱暴ではあるが、休業の原因となった放漫経営を改め、貯銀経営の抜本的改革を迫るものであったのである。
十月に入り、貯銀重役・株主側は拓銀による整理案作成に合意し、十日の株主協議会で美濃部頭取への一任が決定された(北タイ 明41・10・10)。ついに十二月三日大蔵省は、拓銀の支援による貯銀整理案を承認した。その内容は、①貯蓄預金は、一〇円以下は即時払い戻し、一〇円以上は六〇パーセント強を払い戻し、三〇パーセント強は据置とし、利益があがれば支払いに当てる、②普通預金は五〇パーセントを払い戻し、残り五〇パーセントは、利益があがれば支払う、③開業時の運転資金(三〇~四〇万円)は拓銀が出す、というものであった(北タイ 明41・12・9)。この整理案は、救済委員会の第二次案と比べて、預金据置を多くして運転資金の額を明記し、拓銀が提供するとした点が異なっていた。つまり、貯銀自ら作成した整理案に対し、道庁は「預金者にのみ犠牲を強いるもの」という非難を浴びせていたが、預金者の蒙る犠牲(据置)はむしろ拡大されたのである。しかし、拓銀が再建の全面的支援を約束したことは、貯銀の信用上絶大な効果を発揮した。
拓銀による整理案をもとに、再び預金者との交渉が開始された。十二月十五日から二十三日にかけて、各支店所在地において預金者交渉会が行われることになった(北タイ 明41・12・12)。なお、整理案のうち普通預金一〇円未満は即時払い戻しに変更された。札幌区の預金者交渉会は、一言の質問もなく整理案を承認した(北タイ 明41・12・16)。これとは別に、各預金者の承諾書がとりまとめられた。札幌区においては、本店扱い預金者三九〇〇余人のうち、約三〇〇〇人分が各町衛生組合を通じて集められた(北タイ 明41・12・26)。こうして翌四十二年(一九〇九)一月二十五日に、貯銀は約九カ月ぶりに営業を再開したのである。