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開戦の報

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 朝鮮と満州の支配権をめぐる日本とロシアの対立は、ついに戦争へともちこまれていき、日本は明治三十七年(一九〇四)二月十日にロシアに宣戦布告を行い日露戦争に突入した。海軍は二月九日に仁川沖で二艘のロシア艦を撃破して戦端を開いたが、開戦と勝利の報が新聞社の号外で市民に伝えられるや、区内は興奮で沸き返っていた。たとえば『北海タイムス』は「市中の光景」と題し、以下のように伝えている(明37・2・16)。
▲去る十一日以来海軍勝利の我社号外を頒布するや、市民は婦女子に到る迄悦び勇みて恰かも狂せるが如く、家事上の用向等は一切手に付かぬ有様にて、中には馬橇につけたる鈴の音を聴きてもソレタイムスの号外だと戸外に飛出す者さへあり。人気頓に引立てて殆んど発狂せんばかりなりき▲市中一般の家にては賀捷の快報を得るや直ちに神前へ神酒を捧げ、家人等も亦お祝ひなりと称して其の日の仕事を休み酒宴に腹鼓を叩きし者多く、亦祝杯を挙げんとて料理屋店に何れも却々(なかなか)に繁昌し南里遊廓の如きも思わぬ収入(みいり)ありしといふ。

 日露戦争は「未曾有の国難」という危機意識が市民には強く、それだけに緒戦の勝利は「神前へ神酒を捧げ」「お祝ひ」をする程の快事として迎えられていたのである。