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〝大屈辱条約〟

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 日露戦争は三十八年七月でほぼ終結し、八月からアメリカのポーツマスで開かれていた講和会議に舞台は移っていた。九月五日に講和条約は調印されたが、妥結内容は八月三十一日に各新聞に報じられていた。講和条約の中では領土的には南樺太(サハリン)の割譲は入っていたものの、日清戦争時のような賠償金がなかったために、国民や世論はこれを〝大屈辱条約〟とし、講和反対の声が広がっていったのである。特に東京では九月五日に日比谷公園にて同志連合会の主催のもとで開催された国民大会は、戒厳令までしかれる騒動と化す混乱となっていた。
 札幌でも『北海タイムス』は論説で、「得る所は国家の栄誉にあらずして、千古の屈辱なり、列国の感嘆にあらずして、天下の嘲笑なり、骨を沙場に曝したる同胞の忠は、為めに犬死となり、囊底を絞りたる巨大の軍費は、為めに浪費となる」と述べ(北タイ 明38・9・4)、条約批准の不可を強く唱えていた。また、「近頃の区民はいづれも苦虫を嚙み潰した様な顔をして、寄るとさわると大屈辱条約を罵倒して居る、区民大会を開いて条約破棄、戦争継続の決議をしやうといふ相談もチラホラ耳に入る様だ」と伝え(北タイ 明38・9・4)、講和反対の区民大会開催の動向を報じていた。