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北海道の小作争議

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 北海道で最初の小作争議は、明治二十八年(一八九五)秋に鷹栖村愛別原野の金富農場で発生した争議といわれ、その一一年後の三十九年、同じ上川の比布村、比布殖産合名会社農場でも争議が発生したという(北海道農民組合運動五十年史)。また、大正四年には帝国製麻会社美瑛農場で、小作人が小作料軽減の要求を行っている。しかしこれらの明治期、大正初期における小作争議は、端緒的な農民運動の一つの現れであるとはいえ、やや例外的な側面を持っていたといえる。やはりその本格的な展開は、第一次世界大戦の終了による戦後不況が顕在化し始め、ロシア革命などを経た大正中期以降のことであり、事実北海道の農民運動が、小作争議という形で北海道庁などの公式統計に出現するのは大正九年以降のことであった。『北海道農地改革史』(上巻)は、この問題について『新撰北海道史』第四巻に依拠しつつ次のように述べている。
 本道農家の一戸当耕作面積は、府県に比して広大であり、小作料も概ね低率であったゝめ、農家経済も概して潤沢で、大正十三年十二月の小作調停法施行以前に於ては件数、内容ともに余り顕著なものは認められず、僅かに大正九年六月に勃発した神楽村東御料地の紛擾、同十年に発生した蜂須賀農場の紛擾、同十一年四月における丘珠の小作人紛糾、同十二年の板谷農場の争議等が世人の注目を惹いたにすぎなかった。但しこれらの紛擾が本道に於ける小作争議の発端として、農民運動の勃興を刺激し、爾後に於ける争議の増加に少なからざる影響を及ぼした事は否定されない。

 以下、大正九年から十三年の間における争議の発生件数、関係範囲、分布状態などについて同書は詳細な分析を行っているが、この中で本巻の担当範囲である大正十一年までの期間に限定して、その概観を試みてみよう。
 まず小作争議の全道的発生件数は、大正九年四、十年七、十一年一五となっており、逐次増加する状況にある。しかしその地域別件数は明らかではなく、上川、空知地方に最も多く発生し、後志、胆振地方がこれに次いでいた。札幌市周辺における争議としては、現在のところ九年の篠路村・岩崎農場の争議と、前記の引用文にもみえる十一年の丘珠の事件が確認されているにすぎない。
 次に争議の関係範囲をみると、九年の場合、四件の関係者は地主五、小作人四四一二の計四四一七であったが、翌十年には地主七、小作人五〇九の計五一六、十一年には地主三三一、小作人一五二三の計一八五四となっている。関係する土地面積のみは、九年の田畑合計二二四〇町が、十年三三六二町二反、十一年一万二六三七町と着実に増加している。
 また争議の原因と小作人の要求をみると、前者では小作料の値上や風水旱害病虫害等による不作を主因とするものが多数を占め、十年の場合には七件中四件までが小作料値上問題であった。十一年では十五件中六件が不作であり、三件が小作料の値上に起因していた。そして、小作権にからむような争議はいまだ発生が認められなかった。
 一方、小作人側の要求としては小作料の減額に関するものが最も多く、九年から十一年の間の二六件中、その五三・八パーセントを占める一四件がこの減額問題である。次いで小作料の値上反対が七件であり、この両者を合わせると実に全体の八〇・七パーセントを占めていた。これは、争議の主因である小作料の値上や不作問題に対応する当然の結果でもあったといえよう。
 札幌での二件の争議が、以上のような問題にどのようにからんでいるかという点については、後で具体的に触れることとする。
 そして最後に、争議の手段をみてみよう。この時期の争議のあり方は、地主に対する小作人の交渉方法として、一般的には個人的懇願の形態が多く、組合を組織してその力で地主に対抗するという形は少なかったといわれる。したがって争議の継続日数も短く、短期間で解決する場合が多かった。