そして四十五年四月、谷七太郎は再び農場を岩崎久弥に一七万円で売却した。このころ久弥は三菱合資会社の社長であったが、すでに岩手県の小岩井農場(明31)、朝鮮の東山農場(明40)などを経営しており、大正五年の社長退任後は南洋のスマトラ、南米のブラジルにも進出して拓殖事業を展開した。久弥はこれらの農牧拓殖事業を八年に設立した東山農事株式会社の下で総合的に管理する体制を作りあげたが、彼がこのように農牧事業に熱意を傾けた原因として、『岩崎久弥伝』は「自然に接し大地に親しみ、大地の果実を愛するのが彼の天性である」として、その人間性を重視している。そして、三菱の社長在任中は「かかる自己の好尚の発揮に幾分遠慮勝ちかとも見られたが、今その責任を離れた彼は自由な立場において思ふ存分自己の好尚に没頭し、縦横にその抱負経綸を発揮した(中略)然かも一旦農牧事業に傾倒するや、国内や隣邦で理想的大農園を経営するに止まらず、更に遠く万里の異境に未開の曠野を求め、そこに満目豊穰の夢を描いた」(同前)とも述べている。このような「夢」を抱いて農牧事業に進出した久弥が、篠路村の農場を一〇年も満たない短期間の内に手放してしまうのは、やや理解しがたいが。