ところで、岩崎家と小作人との関係からみれば、争議の伏線となる事実が、すでに二年の段階で起こっていたのである。すなわち所有権の移転とともに小作料が引き上げられてきたことは前述したが、具体的にこれをみてみよう。興産社時代の明治二十六年には、「尋常小作料」が上地=反当たり一円、中地=同八〇銭、下地=同七〇銭であったが(道毎日 明26・12・16)、三十八年に同社から谷仙吉に譲渡された際には一等地が二円五〇銭、最低の五等地で八〇銭に引き上げられたのである。その後四十二年谷から本間に譲渡の際にも「小作料を引き上げられた」が、四十五年谷から岩崎家に譲渡された際には、「其当時の価格十万円位のものを十七万円に売買され一万四千円の小作料は一万八千円に値上げ」(北タイ 大9・2・11)された。
大正二年、篠路農場の新管理人として赴任した川崎繁実(後の札幌市会議員)は、前年に引き続いてまたもや小作料を引き上げたので、小作人側は「喜瀬豊吉外百二名連判の許に同年四月中岩崎男爵に嘆願する処あり且模範農場にすると農民は結束して男爵に誓ひ耕作中」(同前)のところ、六年になって岩崎家は小作料を八〇〇〇円切り下げて一万円とした。このため「農民一同岩崎家の情深きを喜び永住心を起し墳墓の地と定め農事を励み今日に至」(同前)ったのである。