社会主義冬の時代に社会主義から転向した人は数知れない。農学校時代に熱心なキリスト教社会主義者から科学的社会主義者に移行した逢坂信忢も、冬の時代になって科学的社会主義を放棄した一人であった。
余は遂に基督教に対しては、不信の状態に陥りしと雖も、然共、独り社会主義のみは、遂に之を疑ふ能はず、信仰が冷却するに従って、余の社会主義に対する信念は、益強烈を加へ来り、遂に余は一時は、殆どマルクス一派の唯物論的社会主義に、陥らんとするが如き、傾向すら有りたりし也、然共、余は今や幸に、神子の意識に入るを得たり、而して見よ、余は此の意識に入ると同時に、真に労働者を救い、将た又社会を救済する所以の真の道は、実に此の神子の自覚と、人格の価値とを伝ふるに在り、彼の社会主義は、決して全然誤謬なりとは云ふを得ず、然共、未だ其の真の深き根本問題に触れ居らずとの、天来の声を聞けり、此処に於て、余は始めて、彼の労働問題、婦人問題等、其の他一切の社会問題は、論ずるを須ゐず、実に廿世紀に於ける、スヒンクスの新らしき謎たる、貧窮夫れ自身の、真の根源に溯りて、之れを解釈する鍵を握り得、茲に多年の難題、一朝にして解釈せられ、恰も彼の旭日の昇ると共に、濛々たる雲霧が一掃せらるゝが如く、余は余の長き間の、理想郷たる社会主義に安住する能はず、再び父なる神の御顔が、旭日と共に光り輝く、主イエスの単純なる福音に、帰り来れり。
大正三年頃に北海道報の記者をしていた金子力三は社会主義者であったが、大正中期に上京してからファシズムに共鳴するようになり、黒シャツを着て北海道に戻ってきた。月寒の奥で僧侶や教師をしていた菅舜英も社会主義者であったが、次第に国家社会主義者に転じた。