明治末年から土工部屋を経営していた井田菊蔵(稼業名小山田喜久蔵)は、大正中期になって土工部屋改善運動を開始した。井田は九年五月十日、苗穂に無料宿泊所を開設し、土工部屋から解雇されて札幌に流浪してきた人びとの救済を始めた。十年には労働革新会を組織し、救済の範囲を拡大し、三月に南二条東二丁目に無料救済所を開設し、一般失業者にも救済の手をのばした。その後、井田は十一年十二月に私財を投じ、函館の聖労院(失業者救済機関)経営者金田日出男とともに失業者救済会を結成し、北二条東一丁目に事務所を置き、全道的に監獄部屋解放運動を進めた。十二年三月には井田と金田の協力による『労働ト産業』が創刊された。
井田は「労狂」と号し、熱心に労働者問題に取組んでいたが、思想的には国家主義者であった。これに対し乞食坊主(または田中正造)と称していた金田は仏教社会主義者で、金田の運動を支援していた鈴木治亮、武内清、村上由といった函館無産青年同盟の人びとに至っては共産主義者であった。井田の無料宿泊所にいた労働者の中には社会主義者がいた。
思想的にかなり異なる人びとが参加した失業者救済会の監獄部屋解放運動は、大正十五年まで続いた。
なお、十一年六月二十七日の『小樽新聞』は、井田菊蔵の土工部屋で生まれた美談を報じている。井田は北海道土工殖民協会結成の中心となり、昭和十五年(一九四〇)八月に当別山中で転落死するまで、監獄部屋解放を叫びつづけた。井田の最後を看取ったのは朝鮮人労働者であった。