明治四十三年九月、「北海道旧土人保護法」に基づいて特設された第二伏古尋常小学校と芽室太尋常小学校の生徒四四人が修学旅行で札幌を訪れ、北海タイムス社や大日本麦酒株式会社などを見学した(北タイ 明43・10・20)。そのなかの実に八割近い生徒は、新聞の印刷工程を目の当たりにして、「短時を以て数万の印刷が出来それに一度に色がつく」(同前)、その生産性の高さに驚きの声を上げた。また、中島遊園地を「実際に観且つ鯉の踊る」(同前)姿に都市機能の充実を見た生徒もいた。
このように当時の札幌は、アイヌ民族の生徒たちの目には、その生活や文化と対立する「近代化」の象徴と映っていた。札幌はアイヌ民族の「同化」を促す役割を間接的に果たしていたといえよう。一人の女生徒は修学旅行の感想をこう記した。「札幌に暮らしたや思へば悲し古郷に明日は帰りて父母に遊びしわけを語るなり」(同前)。ここに自らの生活と文化を捨てさせ、脱アイヌへの道筋をつけようとする修学旅行の意図が端的に表現されている。