女性はいつの時代にあっても働き者であった。開拓時代にあっては妻も夫と共に開墾に従事したし、また商家の場合妻が店の切り盛りをすることも別に珍しいことではなく、妻も娘も懸命に労働に従事してきた。明治に入るまでは女性がどんなに生産労働に従事していたとしても、これらは賃金の伴わない、単なる家業としてしかみられず、女性の生活の基盤はあくまで家庭であって、家を離れて働く仕事としては芸妓や女中があるくらいで、職業婦人といえるものには髪結、産婆くらいしかなかった。しかしその人びとは「職業婦人」とは呼ばれなかった。
明治に入ってからは、まず女性の知的職業として、小学校の教員が、「学制頒布」から一〇年の間に二五〇〇人誕生した。続いて女子師範学校や高等女学校ができてからは、中等教育にも女子教員が登場することになった。
札幌では日清戦争を契機に、看護婦養成が開始され、明治三十二年(一八九九)に最初の看護婦が誕生した。続いて同じ三十二年からは北海道師範学校に一年課程の女子教員の講習科が設置され、女子教員が送り出された。これにより、開拓使時代に開始され、一旦中断されて二十七年公立札幌病院内私立札幌産婆教習所で再開された産婆養成と合わせて、女性の三大天職、すなわち産婆、看護婦、教員が出揃った。
これらに続いて、日露戦争後の札幌は工業化の進展から産業が発達し、工場労働者の急激な伸張のみならず、銀行、企業、百貨店、商店などが次第に女子を採用するようになり、職域の広がりを見せた。
大正期に入っても、女性の三大天職に従事する傾向は変わらずますます増加の傾向を示した。それに加えて第一次世界大戦の余波から、工場労働が主であった男性の職域が企業、銀行といった方面へ移行していった。このため、鉄道、電信、郵便の諸官庁では人手不足となり、その補充として女子を採用する傾向が見えはじめた。道庁事務員、札幌逓信管理局員、北海道鉄道管理局員といった女子事務員である。もちろん百貨店の店員は女性が中心であった。
このような女性の職域の広がりを、当時の新聞は「社会問題」として捉え、その理由として、①教育の普及と女学校各種職業教育の普及、②労働需要の増加、③物価の急騰による経済的圧迫、④結婚難を指摘した。それとともに職業婦人の素質として、繊細な仕事に適す、規則正しい、やさしい、しとやかと同時に賃金が安くて済むことも長所のうちに入って不自然ではなかったのである(北タイ 大10・2・5)。経済的に寄生の状態にあった女性が、自らの所得の機会を「家」の束縛の中にせよ見出したことは事実である。以下職業のいくつかを個別的に追ってその動きを見てみることにする。大正十一年(一九二二)には、札幌の職業婦人の数は一三〇〇人余に達した(北タイ 大11・6・11)。