新しい西洋医学に基づき正式な助産技術と知識とを持つ産婆は、明治二十七年公立札幌病院内私立札幌産婆教習所が開所し、ここから優秀な新産婆が誕生した。三十二年七月公布(十月施行)の勅令産婆規則に基づき、産婆開業規則ができ、満二〇歳以上で産婆試験に合格登録したものとなった。このため同教習所でも、受験資格を満一九歳以上の身体強健、品行方正、尋常小卒業もしくは同等以上の学力あるものに限り、試験の上入学させ修業年限を一年とした。以後毎年一〇人前後の卒業生を出し、北海道庁実施の産婆試験に合格したものがはじめて開業できた。
札幌区内でも、この産婆試験に合格し開業する産婆が次第に増え、三十六年には早くも営業者懇話会が発足したり(北タイ 明36・1・25)、三十八年には戦争の影響で産婆の仕事が一時的に減少したことも手伝って、札幌産婆組合を結成して同業者が一致協力して新知識の学習・交換、陋習の打破などに取り組んだ(北タイ 明38・4・27)。
その後、産婆志願者はますます増加し、明治四十五年四月実施の道庁産婆試験では、札幌での受験者六五人のうち五一人が合格した(北タイ 明45・4・18)。産婆試験には学術と実地があり、両方の試験に合格しなければならず、毎年春と秋の二回試験の機会が与えられていた。
大正十年の札幌区の産婆組合加入者数は五〇人で、年の若い産婆よりも経験豊富な産婆が歓迎された。助産料も組合規定で初診料一円、介抱料五円から三〇円までとなっており、収入の多い産婆になると一カ月一〇〇円にもなったという(北タイ 大10・2・23)。産婆は、資格を持ってさえいれば自由業で自宅で開業できること、年をとっても続けられるなどの点で、女性の職業としては収入の多い安定性のある職業として年の若い女性にも人気があったようである。