札幌区民が使用する共同墓地は、市街地の拡大と人口の増加と密接に関わっていた。明治四十三年には豊平墓地、山鼻墓地、円山墓地の三カ所があった。豊平墓地に通ずる道路は毎年修理箇所を定めて修理を行い、墓参りの時期には草取りも実行した。また大正五年頃からは、墓参りに訪れる人もない荒廃した墓地が散在し、かつ狭隘を生じてきたため、墓地整理を図った。墓地は甲・乙・丙の三等級に分かれ、乙は伝染病患者、丙は行旅病人用とされていた。
豊平火葬場のあるところは、四十三年四月一日境界変更により豊平町から札幌区に引き継がれ、さらに火葬料の軽減を行って使用者の便利を図った。大正五年当時竃(かま)数は七個しかなく、人口増加に伴い死亡数も増したため不足の状態で、旧式の薪式から新式の石炭式への改造が工費約五万円で目論まれた(北タイ 大5・7・16)。その一方、周囲が人家稠密となったため移転論も区民から寄せられた(北タイ 大6・10・24)。なお、七年には火葬料を特等一〇円から三等一円までと定めた(北タイ 大7・3・10)。