大正九年十月一日午前〇時をもって国勢調査が全国一斉に実施された。ところで時計が全国津々浦々の官庁、学校、駅等をはじめとして普及するようになり、全国が一斉に同じ時を刻むようになったのは明治の「文明開化」の所産ともいうべきものであった。明治後半になって町や村の一部家庭の中にまで浸透してゆくようになり、大正には、時間励行が標語になってきた。
それには理由があった。第一回国勢調査が実施された大正九年、道内では旭川商業会議所がいち早く時間励行を決議した。それにならって道内各地でこの種の企画が続出し、北海道庁でもそのための協議会を開いたほどである。当時区内各種の会合を見ても時間通りに開始されたためしがなく、悪習慣が続いているというのが現状であった(北タイ 大9・11・30)。
このため、大正十年六月十日、道庁社会課では、この日が日本で最初に漏刻を用いたとの言い伝えから、車二台で札幌全区にわたり「時間尊重及定時励行」の宣伝ビラ五万枚をまいて、さらに街頭宣伝をすることにした(北タイ 大10・6・10)。
一方札幌区では、札幌区民に午前八時、正午、午後四時を期し花火を打ち上げて時を知らせるとともに、各小学校においての時間尊重励行に関する講話、神社仏閣の一斉鐘皷、その他各銀行、諸会社に対する出勤・退社時間の励行を図るようそれぞれ事前に打合せておくのだった。
道庁社会課では、時間励行を一般道民に普及させるためにかねてから「時間尊重標語」を懸賞募集していた。その結果、三四二人、一〇一三点の応募があり、一等一人賞金五〇円、二等二人賞金三〇円の当選者が発表された。ちなみに一等入選者のそれは「時と共に歩め」であり、二等は「後れて汗かき恥をかき」「義理知らず時知らず」であった(北タイ 大10・7・19)。
左側通行にせよ、時間励行にせよ、やはり生活改善の一環であった。