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四十年以降の来道劇公演等

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 明治四十年代から大正に入ると、これまでよりも中央の劇団等の来道が増加し、その中には新劇といわれるものもみられるようになった。その主なものを挙げると、四十一年には川上音二郎一行、四十二年には川上貞奴一座、正劇カンパニー山本嘉一一座、大正三年には井上正夫らの新時代劇協会が来札し、同時に文芸講演会も開催している。大正三年と四年に島村抱月松井須磨子らによる芸術座、四年には市川左団次、尾上梅幸、松本幸四郎らの一座、五年には市川八百蔵、中村歌右衛門らの東京歌舞伎一行成駒屋一行などによって多くの上演がなされた。もちろんこのほかこれまでと同様に、地方まわりの一座も多く公演している。

写真-5 松井須磨子来道の時の絵葉書(大正4年頃)

 このほか大正に入ってから比較的目につくものとして、『北海タイムス』に連載された小説等を脚色して上演していることが挙げられる。例を大正二・三年にとると、まず二年二月五日から、タイムスデーとして「愛と財(たから)劇」(新田靜湾作)が、革新竹内一座によって上演され、ついで同年六月十四日から「乃木下露劇」が嶋田革新劇一行によって上演された。ついで翌三年には二月二十四日から「野晒勘三郎劇」が「大阪名題」の市川荒二郎大一座によって演じられている。
 これらについて『北海タイムス』は読者優待割引券を本紙に刷込むと共に、連日かなりのスペースで報道しているので、当時の劇および劇場内の様子をあるていど知り得る。「野晒勘三郎劇」を例にとると(6・26)、まず観客は女性六分に男性四分で、芸者衆も多く姸を競い、「重詰物」をつつきながら「舞台役者の評判で持切」というのは、この当時の観劇の風習として一般的なものであろう。舞台について強調しているのは幕毎の背景、大道具で、「口笛が鳴る拍手が起る」好評であったという。以下主要場面の記述が続くが、山場とみられる場面の描写は「表看板にある八つ山下闇仕合の場の如き、両腕より背中にかけ祖先の石碑と父兄の改(ママ)名を分身(いれずみ)したる野晒勘三郎が唯一人にて品川井口道場の剣客十数名を相手の大働き(中略)大仕合中舞台のグルグル廻るなど其妙を尽して大喝采を博し」と伝えている。北海タイムス社としては舞台装置を豪華にするよう努めるなど、かなりの努力をはらったように見受けられ、また後述するように地元演劇活動にも多少の影響を及ぼしたようである。