昭和二年八月十日に桑園踏切の北五条西一〇丁目に、延命地蔵尊が建立されて開眼式と併せて鉄道死者追弔会が行われた。桑園踏切は魔の踏切と呼ばれ、鉄道開通以来三八〇余人の非業の死を遂げた人々があり、冥福を祈るとともに轢死者、自殺者の防止に目的があった(北タイ 昭2・8・9)。延命地蔵尊保存会のもとでこれ以降、九月二十三、二十四日に例祭が行われていった。
大通西一九丁目には開拓地蔵尊が所在していたが、この開拓地蔵尊は明治四年に南一条西五・六丁目間にあった新川の川端に建立され、その後は開拓と市街地の拡張につれて西へ移され、二十八年に一一丁目、三十二年に一七丁目、四十年に一五丁目、大正二年に一八丁目、十年に大通西一九丁目へと移転を重ねていた(樽新 昭5・6・24)。この間に、頭部がないので一名「首無し地蔵」と呼ばれていた。十三年秋に頭部は新川の浚渫の折に発見されて再び接合されたが、これを機に毎秋、盛大な祭りが行われるようになった。昭和五年六月二十三日に御堂が架設されて上棟式が行われ、十年六月二十七日に新義真言宗智山派成田山開拓地蔵説教所となり、十年七月には庫裏が増築され、十一年二月よりは堂守が設置されるようになっていた。七月二十三、二十四日の例祭には相撲、花火、芝居、活動写真などで賑わいをみせていた(昭31・11中央区双子山一丁目の地蔵寺へ移設)。