ビューア該当ページ

軽石軌道

369 ~ 369 / 1147ページ
 大正十年軽川と石狩との間に馬車鉄道を敷設して、一般の貨物や旅客を運搬することを目的として、軽石軌道株式会社が設立された(同社定款第二条)。創立総会は、五月四日発起人である軽川番外地の近藤新太郎宅で開かれた。翌十一年十月二十八日開業式を行い、二十九日から営業を開始した(同社第一、二回営業報告 交通博物館蔵)。路線は現在の道道石狩手稲線上を軽川駅(現手稲駅)から花畔(現在の石狩市役所前辺か)まで、八・二一キロメートルの単線であった。駅は間に新川、南四線、南七線、南九線があった。
 経営は大正十二年を除き連年赤字で、昭和十四年十月二十四日には営業廃止の許可が出されている。雑収入である北海道拓殖補助金がなければ営業は不可能であったといわれている。これら営業不振の原因は明確にはわからないが、経営陣の主導権争いから告訴合戦となったという(濱田啓一 失われた鉄道・軌道を訪ねて(54)軽石軌道)。株主の一覧表から見ると、昭和二年に筆頭株主近藤新太郎をはじめ軽川に住所のあるものが二〇人に対し、石狩はわずか三人である(第七回営業報告)。それが昭和十一年には、軽川二〇人に対し、石狩や花畔は筆頭株主の飯尾圓什をはじめ六三人になっている(第一六回営業報告書)。経営の主体が軽川から石狩に移ったことが何らかの問題を引き起こしたのであろうか。
 同社の昭和十二年の『営業報告書』によると、「十二年九月十五日営業ノ一切ヲ休止シ、昭和十二年十二月三十一日以来一切ノ収支無之、今日ニ至リタルモノナリ。従テ昭和十三年、同十四年ハ営業実蹟ナシ」と記されている(第一七回営業報告書)。