一方、北海タイムス社側は、大正十五年七月北海道航空協会の札幌旭川間の定期飛行を許可された。その際の記事では、会社に航空部を設け、民間航空界の先覚者永田重治を採用し、第一期計画として札幌旭川間に所沢で整備中の軍用サルムソン式航空機を飛行させる計画であった(北タイ 大15・7・11)。八月二十一日札幌の上空でビラまきの試験飛行をした(北タイ 大15・8・21夕)後、二十三日札幌旭川間の郵便飛行を行った。しかしその後は飛行回数は月に数日あるが、多くは宣伝ビラの散布飛行などで(日本ヒコーキ物語)、旭川までの定期航空は、十一月十二日に三回目が行われた(北タイ 大15・11・13夕)。冬の間は橇を装備して冬季飛行の研究も行われたが、その後経費問題もあり、デモンストレーション飛行や宣伝ビラまき程度の飛行に終始した。
昭和二年北海タイムス社は、北二四条西六、七丁目の約二万坪の土地を整備して飛行場とした。ここには、格納庫や事務所の他、操縦士や機関士の社宅やガソリン庫なども設けられていた。しかし三年十一月格納庫から出火して、飛行機もろとも全焼した(日本ヒコーキ物語)。
その後北海タイムス社は、八年に札幌旭川を結ぶ定期航路として、郵便物を搭載して札幌旭川間を往復した(北タイ 昭8・11・2夕、5)。さらに九年八月から十月まで毎週火曜日を原則とした郵便輸送の定期飛行を実施した。新聞によるとこの年の定期飛行は八回行われた(北タイ 昭9・8・7夕、7、10・23夕、24など)。九月新鋭機が到着し、新旧四機体制となっている(北タイ 昭9・9・26)。この札幌旭川間の定期飛行の実施状況についてこれ以上詳しくできないが、十二年には第一四回札幌旭川間定期飛行の実施を伝える新聞報道がある(北タイ 昭12・9・22)。また十一年七月十五日から札幌帯広間の定期航路と称して、七~十月の各十五日の四回の往復を予定して事業を開始した(北タイ 昭11・7・15、16)。
このように、北海タイムス社ではその航空部を充実させつつ航空事業を続けている。しかし、この後は国内の航空機輸送が日中戦争開始とともに制限されたと同様に、事業は停止状態になったと思われる。