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低金利政策

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 日中戦争以前の高橋財政、馬場財政は、ともに低金利政策をとった。これは、恐慌克服・景気浮揚策あるいは、生産力増強策という性格を有するものであった。日中戦争期には、戦費調達を公債増発によって行おうとしていた。しかも、その公債は、市中消化されなければならない。また、軍需を中心とした事業資金として低利の長期資金が必要であった。ここに、低金利政策は、戦時金融統制の中心課題となったのである。この時期の国債利率は三・五パーセントであったが、地方における銀行・信用組合(産業組合)の預貯金金利はこれを上回っていた。すでに、東京、大阪など主要都市組合銀行金利は、三・三~三・五パーセントにまで低下していたので低金利政策は、地方における銀行・信用組合金利の引き下げを課題とした。
 十三年五月末における北海道の定期預金協定利率は三・六六パーセント、農村信用組合の定期的貯金利率は全国でも最高に位置する五・二パーセントであった。大蔵省・農林省の通牒により、金利平準化運動が提起され、道府県ごとに銀行・信用組合を網羅した金融懇談会が結成された(全国金融統制会調査部調査課 戦時下預貯金利率の変化 一)。その結果、他府県には遅れたものの、十四年一月十二日に北海道における金利協定が締結された。銀行の定期預金金利は三・七パーセント、ただし「郡部ノ特殊ノ地域ニアル特定ノ銀行」は三・八パーセントを認める、信用組合聯合会(北聯)は三・七パーセント、ただし当分の間三・九パーセント、農村信用組合は三・九パーセント、ただし「特殊ノ事情アル組合」を例外とする、という内容であった(全国地方銀行協会 全国金利協定成立状況調 昭和十四年一月現在)。
 しかし、三・七~三・九パーセントという金利は、低金利政策下では許容されず、十四年以降政府は、地方銀行金利の三・五パーセント以下への引下げといわゆる勉強率(公表金利よりも上乗せする)の廃止を指導した。十四年一月には、道内各銀行本支店を第一種から第三種に分け、第一種~第三種では定期預金金利にして一厘~二厘ずつの差が認められた。第一種には安田、第一、興銀、拓銀、第二種に道銀、北門、函館、十二など、第三種に泰北、商工、殖産が位置づけられた。十四年十一月の小樽における金融懇談会打合せの際に、郡部拓銀支店と道銀支店の一厘差が、預金獲得上拓銀の不利になるとして、拓銀側は道銀を第一種に昇格するよう主張しているが、日銀支店長、道銀側は困難だと判断している(北海道拓殖銀行業務課 昭和十四、十五年度預金利率等協定関係起案綴)。
 十五年五月二十日の地方銀行協会第四回総会において、桜内蔵相は「地方金利平準化の運動を起したが……その効果大いに挙り、北海道を除き何れも当初の目標通り年三分五厘以下に引下げられ……」と語り、北海道だけが取り残された形となった(北タイ 昭15・6・6)。六月十七日の道庁主催金融懇談会において、表29のように金利協定が締結された。第三種銀行や信用組合など一部に三・六パーセント以上の金利を残したものの、概ね三・五パーセント以下に平準化されたのである。そして第三種銀行の問題は、銀行合同によって解決されることになる。
表-29 北海道の金利協定 (昭和15年6月14日)
種別銀行北聯信用組合
定期預金一種 市部 3.3%
郡部    3.4%
二種 市部 3.4%
郡部    3.5%
三種    3.6%
3.6%  
(当分3.7%)
市街地 3.6%
  (例外3.7%)
農村  3.6%
  (例外3.9%)
全国金融統制会調査部調査課「戦時下預貯金利率の変化(一)」(全国金融統制会報 昭17.8)より作成。