『手稲町史』(昭43)によると、現在の西野の奥発寒川の右股の平和地区にある宮城の沢に、中島商事株式会社の札幌鉱山があったとある。明治末期から大正年代、鉱員五〇〇人を擁する企業体であったが、その後採算が合わなくなり立ち消えとなったという。しかし新聞の報道によると、宮城の沢方面は昭和七年以来、長野県人森泉某の手で探鉱が開始されたとある。また上記の中島商事は、「飛行機製作界の権威東京中島商事株式会社」のことで、この付近一帯の鉱区を手に入れて八年八月以来探鉱を続けていた。さらに宮城の沢には製錬所もつくられ、運搬用の道路も整備されているなどと報道されている(北タイ 昭9・3・18、9・3、11・11)。十年になると十月からの製錬も開始されることが報道されている(北タイ 昭10・9・14夕)。このように、昭和九、十年頃に札幌鉱山では、有望金山として精錬を開始しようとすることまで報道されている。この後の動向は不明であるが、これら新聞報道から見て『手稲町史』の年代の記述は誤りのようである。