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全札幌労働者組合と労働者共和会

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 全札幌労働者組合は、合法労働組合として活動し、指導者正木清は昭和九年十月、田中好雄以来の無産派市議となった。失業者の多くは、別に六〇〇人の会員を有する共和会を組織して、全札幌労働者組合とは一線を画した。実は共和会のなかには、高橋太郎片岡一三(本名山本正夫)がおり、共和会のなかに全協日本土木建築労働組合札幌分会を組織していた。
 全協、そして共和会の熱心な活動家であった片岡一三は八年二月に死去し、共和会は二月二十一日、労働葬を挙行した。札幌最初の労働葬であったため耳目を集め、ラジオも葬儀の様子を報道した。特高は高橋太郎の弔辞の朗読を禁止した(高橋太郎書簡)。全札幌労働者組合は、九年に円山運動場の工事犠牲者の労働葬を挙行した。
 片岡一三は、北一条東六丁目のカトリック教会の診療所で息をひきとったが、札幌の労働者は、無産者診療所の設置を待ちのぞんでいた。七年から準備を進めていた無産者診療所は、八年二月から診療を開始した。しかし四・二五事件で支持者の多くを失い、成果をあげないままで中絶した(このあゆみ星につなげ)。
 札幌無産者消費組合が組織されたのは、七年六月六日であった(『岸孝一』)。札幌無産者消費組合は、全道の無産者消費組合によびかけ、政府払い下げ米獲得運動に取り組んだ。この運動は「昭和米よこせ運動」とも呼ばれているが、十一月二十日には、博品館で全道米よこせ大会が開催された(特高月報 昭7・11)。札幌以外の労働者にとっては、失業者の星として有名な片岡一三の元気な姿を見た最後であった。