大正十二年七月、岡山市中島遊廓の娼妓代表が待遇改善の連判状を携えて県知事に陳情を行った(北タイ 大12・7・25)。このような娼妓たちの待遇改善要求運動は全国に広まり、道内でも十五年、稚内、小樽、旭川、帯広、札幌へと波及した。札幌では、十五年七月十日白石遊廓の源氏楼の娼妓六人が、楼主に前借金の三分二切り捨て、酷悪な待遇改善を要求して旅館にたてこもった。札幌警察署員が仲裁に入ったが、娼妓たちはさらに強硬な手段に出、札幌警察署に押しかけ、鞍替えと前借金の三分の二切り捨てを迫った。結局、営業主側が前借金の半額切り捨て、鞍替え自由を条件に「円満解決」にいたった(北タイ 大15・7・10~12)。日本キリスト教婦人矯風会等による公娼制度廃止運動は、娼妓たちに公娼制度そのものが人権問題であることを自覚させ、このような要求運動となった(後述)。