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産児調節

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 大正十一年三月、欧米を中心に産児調節運動を起こしていたサンガー夫人が来日、しかし内務省では、産児制限の公開講演禁止を条件に上陸を許可した。だが実際には、「多産多死」「貧乏人の子沢山」の状態にあえぐ日本では歓迎され、各地で講演も行われた。在米中このサンガー夫人に学んだ石本(のち加藤)シヅエは、同年十一月毛糸講習会のため来札、「私の本職は産児制限」と語った(北タイ 大11・11・22)。山本宣治『山峨女史家族制限法批判』(大11)をはじめ、産児調節に関する本も出版され、多くの人に読まれた。
 大正十三年、道庁衛生課でも道内の「多産多死」の実態を調査している(北タイ 大13・8・2)が、何ら具体策を打ち出していない。その一方、東京では昭和五年、医師間島僴が産児調節運動を起称し、労働診療所を開設していた(東京百年史 五)。翌六年八月、婦選運動のため来札した市川房枝ら一行のなかの石本シヅエは「産調運動の現勢」を時計台で講演し、市民のなかにはうなずく者が多かった(婦選 昭和六年九月号)。これと関連あるのか、昭和六年の出生は前年に比べ二〇〇〇人減っている(北タイ 昭7・1・17)。日中戦争以後は、「産めよ殖やせよ」に変わってゆく。