昭和戦前期の札幌市には「昼間」の小学校と並んで、「夜間」のそれも存在していた。それは豊平尋常高等小学校に併設された夜学部で、大正十五年五月に同校校長・久田儀兵衛が「家庭貧困にして昼間通学出来ざるものゝために義務教育を施す」ことを目的として開設した(札幌教育 第六一号)。夜学部には東京市の「尋常夜学校学則」のような規程は制定されなかったが、専任訓導と裁縫科を担当する兼任訓導が一人ずつ配置されていた。授業日数や授業科目は「昼間と同一」の課程であったが、授業時間は夜間の六時から九時までの三時間であった。
夜学部の在籍児童数は大正十五年の開設時には二六人(男一二人、女一四人)であったが(豊平小学校 百年のあゆみ)、昭和四年には四八人(男二四人、女二四人)に増加した(札幌教育 第六一号)。これは専任訓導が「昼間通学区域内を巡回して出席を督励し、不就学児童見当れば、父兄を訪問して、昼間部又は夜間部に就学」(同前)させるという、きめ細かな就学督励策を実施したことによるものであった。夜学部の年齢層は一〇歳から二〇歳までというように幅広く、「昼間」の課程とは大きく異なっていた。授業形態は一人の専任訓導が、学力差が著しい全学年の生徒を指導する複式授業で、当時の札幌の「昼間」の課程では考えられないことであった。「家庭貧困」の児童は義務教育制度上の差別をも甘受しなければならなかった。
在籍児童は「家庭貧困」であったため、全員が一定の仕事に従事していた。その職業別内訳(昭4)を見ると、「徒弟」(一一人)が一番多く、これに「子守兼留守」(九人)、「家事手伝」(八人)、「職工」(六人)、「子守兼内職」(四人)、「屑拾」(四人)、「軍手かゞり」(二人)、「物売」(二人)の順で続いていた(同前)。
昭和九年、二代目専任訓導の高橋渡は夜学部の現状を「此の学級の持つ意味がまだ/\一般は勿論教育者にも理解されてゐないことは何より残念なことです。所謂『お客さん』扱ひがそれです」(札幌教育 第一〇三号)と語っている。この高橋の言説のなかには夜学部を冷遇し、その存在を正当に義務教育制度のなかに位置づけ、認知しようとしない教育関係者への静かな怒りが含まれている。夜学部は昭和十四、十五年頃には在籍児童数が八人に減少したことに加えて、十五年には五代目専任訓導が病気休職したこともあり、閉鎖となった。