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札幌幼稚園から若葉幼稚園へ

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 明治三十一年に札幌女子尋常高等小学校附属幼稚園が閉園してからおよそ五年間は、札幌には幼稚園が全く存在しない、幼児教育の空白の時代であった。三十六年になって、私立育成尋常高等小学校校主・安田貞謹が同校附属幼稚園を設立したが(北タイ 明36・2・22)、翌年一月の同校の火事で幼稚園も類焼し、閉園となった。
 続いて、四十一年六月には村木啓作が区民の財政的支援を得て、北七条西七丁目(偕楽園跡)に私立札幌幼稚園を創立した。村木は十三年に東京師範学校を卒業し、跡見女学校などで教鞭をとった経歴を有していた(樽新 明40・7・6)。同幼稚園は開園当初一八人の園児からスタートしたが、同年十二月には八人に減少し、閉園に追い込まれた(北タイ 明42・7・11)。
 この私立札幌幼稚園の経営を村木から引き継ぎ、同幼稚園の再建に尽力したのは塚本正賢である。塚本は四十二年四月に「区有志の声援に依って」同幼稚園を再開した(北タイ 明42・7・14)。園児も再開当初こそ一一人に過ぎなかったが、六月には三〇人、七月には三二人というように増加し、経営も次第に安定していった(同前)。塚本による同幼稚園の再建は、札幌での幼稚園の存在が区民の意識のなかに次第に浸透し、幼児教育の重要性が認識されはじめる大きな契機となった。これはまた幼稚園経営の安定にも繫がっていった。
 同幼稚園では園長の塚本のほかに、工藤ケイと高山サク子の二人の保姆を採用し、園児の指導に当たった(同前)。同幼稚園のカリキュラムは「修身」「唱歌」「色板」「色別」「談話」「折物」「積木」「遊戯」「輪並」「箸並」の一〇科目で、指導時間は午前九時から午後二時までと定めていた(同前)。塚本の教育方針の一端を紹介すると次の通りである。「氏より育ちといふ事を旨とし、父母の心を以て保育したき事」「忠孝の道を重んする様に保育したき事」「礼儀を重んし品位を高むる様に保育したき事」「身体壮健にし堅忍不抜の人となる様に保育したき事」「精神を活発にし物に怖れ事に後れさる様に保育したき事」「華美虚飾の悪習に染まさる様に保育したき事」(同前)。
 塚本が再建した私立札幌幼稚園は、四十三年四月、阿由葉宗三郎を園主に迎え、園名も私立若葉幼稚園と改称した。所在地も前年、園児の通学の便宜を考慮し、北二条西二丁目に移転していた(北タイ 明43・6・23)。

写真-12 園児募集広告(北タイ 大5.7.5)

 フレーベル祭は同幼稚園の存在を、教育関係者をはじめとする多くの区民に印象づけた最大の行事であった。それは世界で最初に幼稚園を創設したフレーベルの功績を讃えるために、毎年フレーベルが死去した六月二十一日に開催された。
 試みに、四十五年のフレーベル祭の様子を紹介しておこう。その当日は午後一時半から同幼稚園の父兄や園児など百数十人が集まり、式場には「美しく種々の恩物を以て飾られ、正面にふれーべる師の写真を安置」していた(北タイ 明45・6・22)。式は塚本園長の開会の辞から始まり、「君が代」の合唱や「教育勅語」の奉読などに続いて、園長の「誨告」や阿由葉園主の「訓示」、園児による「談話」や「数番の合同遊戯」が行われた(同前)。また、来賓者に対しては「園児の手製にかゝる手工品」も併せて披露された(同前)。
 同幼稚園は明治から昭和戦前期までの長期にわたり、札幌を代表する幼稚園として多くの卒園者を出し、幼児教育の中枢的位置を占めた。