文部省は前年十二月、こうした幼児教育関係者の活動や帝国議会での請願の採択などに応える形で、「国民精神ノ作興、教育ノ方針其ノ他ノ文政ニ関スル重要ノ事項ヲ調査審議スル」機能を担っていた内閣総理大臣直属の文政審議会に「幼稚園令」の制定に向け、次の七項目の諮詢を行った。
一 | 幼児ノ心身ヲ健全ニ発達セシメ善良ナル性情ヲ涵養シ特ニ家庭教育ヲ補ハンコトヲニ力ムルコト |
二 | 市町村、町村学校組合又ハ私人ハ幼稚園ヲ設置スルコトヲ得ルコト |
三 | 地方長官ニ於テ必要ト認ムル場合ハ市町村、町村学校組合ニ対シ幼稚園ノ設置ヲ命シ得ルコト |
四 | 幼稚園ハ独立シテ設置スル外小学校ニ附設スルヲ得ルコト |
五 | 幼稚園ニ入園セシムヘキ幼児ハ満三歳ヨリ尋常小学校ニ入学スルマテノ者トシ更ニ必要ニ依リ三歳未満ノ幼児ヲモ収容シ得ルコト |
六 | 保姆ハナルヘク師範学校卒業程度ト同等以上ノ学力ヲ有スル者ヲ以テ之ニ充テ各幼稚園ニ相当ノ員数ヲ置カシムルコト |
七 | 幼稚園ノ設置ニ付テハ標準ノ大綱ヲ示スニ止メテ土地ノ状況ニ適応セシメ設置ヲ容易ナラシムルコト (文政審議会議事速記録) |
これらの諮詢事項中、既往の規定には存在しない、新たな事項は第三(地方長官の幼稚園設置命令規定)と第五(三歳未満児の幼稚園入園規定)の二項目であった。文部省はこれらの事項を追加することにより、幼稚園に新たな意味と役割を付与することを意図していた(粂幸男 幼稚園令の制定と幼稚園教育の位置)。
文部大臣・岡田良平の趣旨説明によれば、この第三の諮詢事項は第一次世界大戦後の「戦後恐慌」によって共働き家庭が増大し、家庭教育が疎かになっている現状を踏まえたものである。しかし、文政審議会では各委員から地方長官が市町村に対して幼稚園の設置を強制したり、また、その設置に際して地方団体に法律上の経費の支出を強要したりするのは問題であるという意見が強く主張された。
一方、第五の諮詢事項は入園年齢を改定し、それまでの三歳以上の幼児のみならず、必要に応じて三歳未満の入園も認めようとするものであった。また、保育時間も延長して「早朝ヨリ夕刻ニ及フモ亦可ナリ」とした。この諮詢事項は幼稚園に託児所的性格を付与するものであるが、実態としては「幼稚園ノ本体ノ中へ三歳未満ノ者ヲ入レルト云フノデハナクテ、幼稚園ノマア附属ト申シマスカ、三歳以下ノ極端ニ言ヘバ乳呑子ト云フヤウナ者デモ収容シ得ル設備ヲ幼稚園ニ附設シテ為シ得ル、斯ウ云フ意味ニ外ナラ」(文政審議会議事速記録)なかった。こうした三歳未満の幼児の入園は、幼稚園とは施設や設備も区別する「託児」そのものであり、まさに「労働階級者の便宜を図」(枢密院会議筆記)るための政策といえよう。このような「幼稚園令」の諮詢の背景として、当時の大正デモクラシーや乳幼児保護運動などに加えて、無産政党の結党や労働組合の結成、労働争議の多発など労働者の運動の高まりが存在していた。
「幼稚園令」は、文政審議会の答申(第一~二及び第四~七の諮詢事項)を受けて制定されたわけであるが、それは幼稚園教育のあり方に新しい理念と方向を打ち出し、その法的基盤を確立した意味では画期的であった(幼稚園令の制定と幼稚園教育の位置)。また、「幼稚園令」の制定は幼稚園を独立した教育機関として学校階梯に位置づけるとともに、これを契機に幼稚園数が飛躍的に増加したことから明らかなように「幼稚園の民衆化」(東京日日新聞 大15・4・26)に大きな役割を果たした。事実、全国の五歳児の就園率は十五年からは五パーセントを超え、昭和十六年には一〇パーセントに達した(幼稚園教育百年史)。札幌でも幼稚園の創立が相次ぎ、園児数も増加していった(表2)。