太平洋戦争勃発時、放送局はほぼ全国に分布していた。聴取者は昭和十六年十一月の時点で六三〇万人を超え、普及率は四三パーセントに達した。その後、聴取者は年々増加し、十九年には七五〇万人に上った(日本マス・コミニュケーション史)。この聴取者の急増は、ラジオの「速報性」が高く評価されたことのあらわれである。戦時中は少しでも早く戦況を知る必要があった。ラジオの戦況ニュースは、新聞の号外よりも早く人びとに情報を提供することができた。昭和二十年、軍当局の警戒・空襲の警報発令はラジオ放送によって伝達された。このため、出始めの頃は値段も高く贅沢品とされたラジオはもはや生活必需品となり、聴取者はさらに増加した(新北海道史 第五巻)。
二・二六事件(昭11)以後、政府の重大発表はラジオを通じて行われるようになった(日本マス・コミニュケーション史)。昭和二十年八月十五日正午、天皇の終戦勅語もラジオによって全国に伝えられたのである。