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アメリカ文化の受容

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 戦中「鬼畜米英」の洗脳を受けた道民は、占領軍の札幌進駐を不安と恐怖を抱いて迎えた。しかし、アメリカの初期占領政策が恐怖を与えるものではなく、日本の非軍事化と民主化の二本の柱に絞られ、特に後者においては、労働・教育・政治制度・経済の民主化と女性の解放を謳(うた)っており、長い間苦しめられた封建制からの解放は多くの恩恵をもたらした。その一方で、CIE図書館(民間情報教育局図書館)は、単なる図書館ではなく、アメリカ文化の窓であり、アメリカ民主主義を道民に教え込む核として札幌に設立された。東邦生命ビル(北1西4)の一階を改築しての設立には、道民から寄付を募り、実権は占領軍、運営担当者は北海道知事といった、支配者と被支配者の力関係のもと、二十三年五月二十六日開館、講和条約発効の二十七年四月二十八日の閉館まで約四年間存続した。CIEとは、本来占領地域における宣撫工作(せんぶこうさく)をしたり、反占領軍的な行動を未然に防ぐための宣伝活動を意味する。ところが、民衆との接点になる図書館をめざし、当時の日本ではほとんど閉架式であったのに対し、米国流開架式を採用し、図書館の駅前通りに面した部分はすべてガラス張りであった。空腹をかかえて道行く市民は、ガラス越しに見る洋書をひもとく人、「ヴォーグ」などファッション雑誌を立ち読む女性に、羨望の目を注いだ。北海道民・札幌市民の多くは、日本の図書館とは一色も二色も異なった米国流図書館のサービスを享受した。開館半年間で入館者は延べ五万二〇〇〇人余の活況ぶりをみせた。そのほとんどが医学、化学など戦後の日本では容易に手に入らない新しい学術書を求める学生たちと、新着のファッション雑誌を求める若い女性たちであった(道新 昭23・12・4)。CIE図書館は、本をそろえて利用客を待つだけでなしに、映画鑑賞会やレコードの貸し出しを行い、レコードコンサートを催したり、さらに二十四年、北海道民事部教育課長として着任のニブロの企画で、スクエアダンス大会が催され、これを機会に一大旋風を巻き起こした。札幌市民は、アメリカ文化というよりも、「解放された」という感激に浸ったという(アメリカン・センター物語)。CIE図書館は、アメリカ文化の宣伝に止まらず、市民に民主主義の基本を教えた。
 講和条約発効後、同図書館は札幌アメリカ文化センター(北1西1)に衣替えし、四十一年に、北二条西一二丁目に移転、四十七年には、札幌アメリカン・センターと改称された。