こうした警備警察の活動の根拠となったのは、団体等規正令などの治安諸法令とともに、二十五年九月二十六日に施行となった市の公安条例である。すでに占領軍の慫慂により大阪市を先駆に公安条例の制定が各地であいついでいたが、札幌市においては二十四年六月の市議会で助役が「現在提案する意思は持っていない」という見解を示していた。
ところが、二十五年九月二十四日の道平和擁護大会に関わる事件が急遽公安条例の制定を促した。その事件とは「9月24日朝、炭労会館で開催中の大会を札幌市警が強制解散、さらに午後から市役所桑園出張所他一ヶ所で行なわれた平和祭に対しても市警は再び解散を命じた。このため警官隊とこの解散命令に抗議する人達の間で小ゼリ合いがあり7名が公務執行妨害容疑で中央署に連行された」(七期小史)というものである。翌二十五日、公安委員会から公安条例の制定は急を要するという申し出があり、高田市長は翌二十六日の定例議会に緊急上程した。占領軍の軍政部公安課からも強い指示があったとみられる。
正式な名称は「集会・集団行進及び集団示威運動に関する条例」で、全七条からなる。この提案理由で、高田市長は二十四日の事件をあげ、「今後におきましては、その虞(おそ)れなしとしない」とし、「公共の安寧を維持し市民等の安全を保持いたすために本条例を制定せざるを得ない」と述べた。本会議での質疑後、条例審査特別委員会で逐条審議をおこなって条例全文を承認した。すぐに本会議が再開され、賛成二九、反対九で、条例は原案どおり可決され、即日に施行となった(七期小史)。わずか一日の審議で成立したのである。
この条例は公共の場所での集会行進、および場所の如何を問わず集団示威行進などを対象範囲とするもので、集会などは七二時間前までに警察署の許可が必要とされた。二十六年の集会行進許可申請の件数は、中央署で四七六件、北署で二六件となっている。二十五年には無許可デモ行進による公安条例違反として北大生一〇人が逮捕される事件があった(昭25 事務)。
経済統制諸法令の廃止によって二十六年十月に中央署の経済保安課と北署の経済係が廃されるまで、戦前から引き続いて、いわゆる経済警察が活動した。二十五年の中央署の状況をみると、食糧管理法や物価統制令・地代統制令違反などの経済事犯の検察への送致数は五六三件、六五三人にのぼる。物資別では食糧が約七〇パーセント、職業別ではブローカーが約四三パーセント、消費者が約二八パーセントとなっている(昭25事務)。