昭和十四年(一九三九)四月、従来の消防組と防空業務にあたっていた防護団が統合され、警防団が生まれた。十九年には消防業務が道に移管され、警防団は民間防空と戦時体制強化のための組織となり、警察の下部機関的な機能をはたした。市の機構としては防衛課が管轄した。
敗戦とともに防衛課に代わり社会課警備係が警防団の残務整理を担当した。二十年十二月末の時点で、団本部と一六の分団からなり、一五四九人を擁していた(前年末は一八一五人)。二十一年三月の市議会では「警防団の民主化」について論争がおこなわれた。紺野庄三郎議員が「治安維持のため暴力行為の取締等に働かせるといふが警察政治の復活強化を策するもので民主化と逆行するも甚だしい」と批判するのに対し、団幹部の議員は「警察力が弱体であるから警防団が補助しなければ治安は保たれぬ」と反論する(道新 昭21・3・6)。