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落選後の動き

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 札幌市が有望との報道もしばしばなされ、投票結果は期待をもって待ち望まれていた。札幌開催が決った際には、花火を打ち上げて市民へ連絡する手はずも整えてあったのだが、落選という結果に市民、関係者には落胆、失望も強かった。立候補に際しての準備不足と札幌の知名度不足は、否めなかったようである。
 落選後、原田市長をはじめとした市理事者の責任を追及する動きがみられ出す。市議会共産党議員団では三十九年一月三十日に、原田市長の責任追及の声明を発表していた。原田市長が帰札したのは二月六日であったが、八日の臨時市議会にて原田市長は落選の原因について、メキシコ開催決定の影響、IOC委員に冬季スポーツ関係者が少なかったことなどをあげて報告した。十日に質問と社会党提出の誘致失敗を含めた四項の件で市長不信任案が出され、採決の結果否決されたが、市議会での市長不信任案は初めてのことであり、落選結果は市政の混乱へも尾を引いていた。
 札幌招致委員会も四月十一日に、「一層広汎且つ旺盛な挙国的熱意の上に立って、根強き招致活動を引続き展開し必ず所期の目的を達成するであろうことを確信するものである」と(第一一回オリンピック冬季大会札幌市報告書)、札幌市の再立候補を期待する声明を出して解散していた。
 この年、十月十日から東京オリンピックが開催され、女子バレーボール、柔道競技で日本が金メダルを獲得したこともあって、日本中がオリンピックに沸いていた。また、オリンピック事業によって東京には高速道路が整備され、東海道新幹線も敷設され、オリンピックの開催にともなう都市、交通整備事業の威力に驚嘆していた。これらのことが、再度の立候補の導線となっていくのである。