市民側の招致推進の協力機関であった、オリンピック冬季大会札幌招致協力会は、目的を達したことから昭和四十一年八月九日をもって解散したが、今度は開催に向けての協力機関として協力会の設置がはかられるようになる。そして四十二年三月三日に経済、婦人、スポーツ団体など一二四団体の関係者が出席して札幌オリンピック協力会が設立された(会長広瀬経一道商工会議所連合会会頭)。同会は関係機関への陳情・建議、地区協力会の育成・指導、組織委員会への協力、道民へのPR活動などを主な事業としていた。開催を目前に控えた四十六年度の事業としては、PRキャラバンの道外派遣、主要都市でのオリンピック切手展の開催、強化選手の激励、善意通訳の要請、選手村の慰問などが予定されていた(道新 昭46・5・26)。
市内各地区でも協力会設立の動きがみられていた。これまで招致推進への協力会を設立していた藻岩、平岸地区では開催決定を機に、開催のための協力会に変更されている。また西岡地区でも六月二十一日に、オリンピック協力会が結成されていた。
札幌市ではその後、各出張所を通じて各地区ヘオリンピック協力会設立をはたらきかけ、その結果、四十三年からは設立の動きが加速し、二月に琴似、厚別、菊水、三月に手稲、東手稲、北円山などの各地区でもつくられていた。札幌オリンピック北円山協力会の場合、会員の募集・育成指導、資料の収集・配布、住民への啓発・宣伝、記念品の販売・斡旋などを事業としていたが(タイムス 昭43・3・6)、各協力会はいずれも記念バッジの販売で資金協力をしていた。
地区協力会のほかに商店街単位の協力会も設立されており、これら多数の協力会の連絡調整を目的として四十三年七月二十一日に、札幌オリンピック協力会が主催となって地区連絡協力会代表者会議も開かれていた。この時点までに地区協力会は四〇、商店街・団体単位の協力会は四〇、あわせて八〇の協力会が設立となっていた。
協力会では施設建設現場への慰問・慰労、商店街での協賛大売り出しなどの協力、開催期間中は一三会場の四〇サービス・コーナーにて延べ二〇〇〇人が奉仕活動するなど、市民の側からのオリンピックを盛り上げ、支援する機関として注目すべき活動をしていた。また、地区協力会の中には英語学習をするところもあり、市民の国際交流も試みられていた(札幌オリンピック協力会は大会後の四十七年四月二十五日に解散)。
四十五年十二月八日に札幌オリンピック協力会と関係団体、市民憲章推進会議、商工会議所、観光協会などの諸団体によって札幌オリンピック市民運動推進連絡会議が結成され、「オリンピックを理解しましょう」「世界の人々を親切に迎えましょう」などの運動がなされ、中でも街頭や店頭にステッカーを貼った「YOKOSO」運動は、市民の歓迎を示す心となっていた。
国外の選手・役員団や観光客の応対に必要な通訳には、市民のボランティアが募集され、四十五年十一月に開催された第一回の善意通訳講習会以降、研修が続けられたが、その善意通訳の登録者は二一二八人に及んでいた。