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運行の復興と電化

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 戦後間もない二十年九月国鉄運営の改善を期すべく第一歩としてダイヤ改正を行おうとした。しかし車両数の不足などから道内では函館本線函館稚内間の急行列車一本の運行程度で、近距離の通勤列車などは客車不足から貨車に置き換えるなどの措置をとった(道新 昭20・9・20)。そして十一月ダイヤ改正をして増車をしたが、石炭不足などから車両制限をせざるをえなかった(北海道鉄道百年史 中)。二十一年十一月ダイヤ改正でも車両の削減は続いた。二十三年五月から列車の増発がはじまり、七月のダイヤ改正でやっと切符の販売制限もなくなり、運行も改善されていった(道新 昭23・4・14、5・15、5・19、7・1など)。
 鉄道施設などの復旧整備は、最終的に三十二年度からはじまった復興五箇年計画でやっと老朽設備を一掃することが出来たという(札幌駅百年史)。
 一方昭和二十五年経済安定本部資源委員会から国鉄に対し幹線を電化するように勧告が出され、昭和五十年までに電化、ディーゼル化を推進し、蒸気機関車を廃止することになった。四十三年八月二十八日函館本線の小樽滝川間が電化開業し、四十四年十月には旭川までが電化された(道新 昭43・8・28、北海道鉄道百年史 下など)。