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手稲隊の入植

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 このような拓北農兵隊の一人に手稲村に入植した田中美之助がおり、後に『白雲を眺めて』(昭47、原文は昭和二十一年に執筆されたもの)という手記をまとめている。田中は明治三十八年に東京市文京区で生まれ、大正十三年に大倉商業学校を卒業して第百生命保険会社に入社、以後サラリーマン生活を送っていたが、昭和二十年四月十三日の空襲によって板橋区西大久保の実家は全焼し、無一物となった。このため七月に第百生命保険を退社し、拓北農兵隊に志願した。七月六日に東京を出て三日目、田中一家を含む手稲隊は手稲村前田に入植した。隊員の多くは杉並区からの入植者で占められていたが、入植直後の彼らの状況を田中は次のように記している。
官吏あり、会社員あり、新聞人あり、建具屋さん、古董商、指灸師、雑役、刺繡屋さん其の他さまざまな職業を過去に持った人々が戦災に会い、強制疎開を受け、住む家なく離散せる家族をまとめて一途食糧増産報国の一念に燃え、勝つ為に一切を犠牲にして白紙の入植をしたのだ。北海道開拓集団帰農手稲農民団、これが彼等の団名である。我々は毎日中村隊長の下に規律正しく行動して働いた。差し当りの住居として村当局で用意されたのは、二ケ月前まで牛が二、三十頭居たと言う石のサイロのある牛舎を十七家族が入れる様にそれぞれ板で区画した、異様な臭気のする窓のない真暗な一間であった。初めて着いた一同は先ず悪臭と暗さに驚いた。多い家族で十畳、少ない家族で六畳程度の広さの中へ持って来た夜具、衣類、食器類、鍋釜、手回品などを詰めると寝る場所は半分になってしまった。それでも一戸当り十五ケと制限されて送った荷は全部ほどくことが出来ず狭い通路に荷作りのまま我が部屋より高く積み重ねたのであった。六分板を打ち付けた上に莚を四、五枚敷いたその部屋は、雨が降れば瀧の様に上から雨水が落ちた。
(白雲を眺めて)

 この手記にも記されているように、手稲隊に用意されていた仮宿舎はもともと牛舎であり、このような事実が隊員の気持ちを萎えさせた。彼らが二戸一棟で一戸あたり一〇坪、合わせて四棟の住宅をほぼ自力で完成させ、引っ越したのは十一月下旬であった。