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生産都市の夢

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 一九六〇年代は高度成長期とよばれるが、札幌の状況はどうだったのだろうか。このころ札幌でさかんにいわれたスローガンに「消費都市から生産都市へ」というものがある。新聞の見出しでは「生産都市をめざす 中小企業育成に力こぶ」(道新 昭37・3・25)、「消費都市から生産都市へ 札幌 近郊の市町と協力 工場誘致、広域化進める」(道新 昭38・1・1)、「生産都市へ多くの課題 製造業の立地条件を診断 容易でない用地買収」(道新 昭40・2・17)などである。
 このころから工業に関する統計調査は、通産省の工業統計調査として全国一律に全工場に調査票を配るセンサス方式で行われるようになる。三十三年の工業統計調査結果が判明した時に、新聞は「中小企業が圧倒的 札幌市、三十三年度の工業調査」として、「〝工業都市〟とはおせじにもいえない札幌だが、この調査結果からみてもあまり自慢できそうにない」と嘆く。その根拠は、見出しにもあるように零細企業が多く、本州勢に押されがちで、生産額の伸びも商店の販売額の伸びに及ばないということなどであった(道新 昭34・11・9)。三十七年の工業統計調査結果が判明した時にも「消費都市の特徴示す 大規模工場、わずか一パーセント」という見出しで先程と同じ特徴が指摘された後「第二次産業の花形である化学工業、電気機械、鉄鋼などはいずれも三十工場未満で、消費都市の特徴を示している」としている(道新 昭38・6・7)。もっとも、これらの記事にも矛盾があり、一方で大工場が少なく零細工場が多いことを嘆きながら、「第二次産業の花形」については数が少ないことが欠点とされている。
 昭和三十七年五月に新産業都市建設促進法が公布され、翌年七月、札幌、小樽、室蘭、苫小牧などが道央新産業都市に指定された。閣議決定の知らせを受けた原田市長は「(道央)ベルト地帯としてでなく、道央地区下の札樽圏としてのプランですが、七年後、そう昭和四十五年には生産高は三十一年と比べると工業生産高は五倍、商業売り上げ高はゆうに約七倍。また就業人口にしても生産人口の第二次産業が上昇、ほぼ生産型の都市構造の方向に進みますよ」と語った(道新 昭38・7・12夕)。このころは、「生産都市」、「札樽工業地帯」、「道央ベルト地帯」という言葉が、夢をもって語られていたのである。