鉄工団地よりも一足先に木工団地の計画が立てられた。札幌市は、三十四年に市内の家具、建具業者を一カ所に集め団地化する計画をもち、業者に働きかけを開始した(道新 昭34・4・7)。業者側は札幌家具工業協同組合、札幌建具工業協同組合が母体となり、共同施設としては障子などの枠をつくる框工場(かまちこうじょう)と乾燥場を計画した(道新 昭35・10・13)。その後琴似町発寒に場所を定め、翌三十六年一月には地主との契約を完了し(道新 昭36・1・28)、両協同組合の移転予定者(三六業者)は協同組合札幌木工センターを結成した(道新 昭36・2・25)。木工団地建設は順調に進み、三十八年十月には一九工場の移転が完了し、共同購入事務所が完成、框工場、乾燥場も九分どおりできあがっている(道新 昭38・10・10)。四十年五月には三三工場ができ、従業員住宅、独身寮、共同加工場、共同乾燥場、共同浴場、診療所、運動場、講堂、市場、理容所ができている。生産額も年々伸び、明るい展望が見えていた(道新 昭40・5・1)。
ところが四十二年四月には協同組合木工センターとして八〇〇〇万円の焦げ付きを出し、金融機関からの追加融資を断られ、道が指導・再建に乗り出した。負債を返せなくなった組合員は五社で、道工業課長は「組合首脳部が〝協同組合精神〟にもとづき温情あふれる処遇を続けたことが大きな要因」だと語った(道新 昭42・4・8)。その後、理事長が二度交代し、専務理事に前道銀美唄支店長を迎え、経理面での建て直しをはかり、四十三年にはようやく危機を脱することができたのである(道新43・5・26)。