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道内四行の業況

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 この期(昭和四十年度~四十七年度)の北海道拓殖銀行の業況は次のとおりであった。まず預金は四一二九億円から一兆三六三八億円へ、貸付金は三三七四億円から一兆一二三五億円へとそれぞれ三・三倍に増加した。資本金は一二〇億円から二〇〇億円となり、当期利益金は一〇億六〇〇万円から三〇億五八〇〇万円となった。また店舗数は一四二(うち道外三三)から一五〇(同五二)に増えるとともに従業員も五七三三人から五九九一人へと増えている。金融の国際化の流れの中で、二十五年一月に認可された乙種外国為替銀行から四十四年九月、甲種外国為替公認銀行に昇格すると、四十五年六月にはニューヨーク駐在員事務所を開設し、四十七年六月、ニューヨーク支店新設に着工、翌春、竣工している。
 大衆化の流れの中で三十六年四月から消費者金融業務も開始された。これは住宅、自動車、電気機器などの耐久消費財を対象とするものであり、このほかメーカーや販売業者との提携ローン取引も開始された。これらはいざなぎ景気の中で急増し、四十五年三月末における消費者金融の「貸出残高は総貸出の二・四パーセントを占め、都市銀行の同比率一・五パーセントをかなり上回って」(北海道拓殖銀行史)いた。また大衆化の方向に沿った新種サービスとして、四十三年には放送受信料、電話料金等の自動支払い、給料等の自動振込等を取り扱う預金業務や会員がカードで加盟店から掛け買いができるクレジット・カード業務等も開始されている。さらに銀行業務のコンピュータリゼーション(コンピュータによる情報処理化)が進展し、四十四年三月には全国七番目として普通預金のオンライン処理が始動し、四十五年九月には札幌市内全店のオンライン化が完了した(北海道拓殖銀行史)。四十七年八月からは、普通預金と当座貸越を連結させた「総合口座」がスタートし、その利便性により急速に普及した。
 北海道銀行は、預金は一一三二億円から四二五八億円へと三・八倍に増え、貸出金は九九四億円から三五一一億円へと三・五倍に増加した。この間、道内におけるシェアは、預金が一九・二パーセントから二四・〇パーセントへ、貸出が二一・八パーセントから二四・九パーセントへと拡大した。資本金は一二億円から三回の増資を経て三六億円となっている。店舗数は八五から九二に増えたが、この間、四十一年二月大阪、四十四年八月仙台、四十六年八月新宿、四十七年十月八戸など本州への支店進出が続いた。従業員は一五三〇人から二〇五二人へと増え、当期利益は三億六〇〇〇万円から八億四四〇〇万円へと増加している。三十六年三月、乙種外国為替公認銀行に認可され、同年四月から外国為替業務が開始されたが、三十六年度わずか四五万ドルにすぎなかった取扱高は、折からの国際化の進展に対応して、四十七年度には一四五〇万ドルとなっている。
 また銀行大衆化の中で、個人を対象にした消費者金融制度が拡充されていった。すでに昭和三十年代前半から住宅資金などを融資する銀行独自の非提携方式がおこなわれていたが、四十一年以降、「住宅ローン」「証券ローン」「財形ローン」などの拡充や新設がはかられていった。メーカーなどの保障で商品購入者に資金を融資する提携方式は三十九年四月から開始されたが、その後、自動車、家庭電気機器などから住宅、楽器などに拡充されていった。四十四年十月からはユニオン・クレジット(UC)と業務提携してクレジットカード業務を開始した。コンピュータリゼーションの進展については、四十六年六月、札幌市内全二五店をオンライン化し、九月には道内主要都市の全二二店のオンライン化を完了している。四十七年八月、都市銀行はいっせいに「総合口座」を発売したが、地方銀行の中で都銀との同時スタートは横浜銀行と北海道銀行だけであった(北海道銀行30年史)。
 北洋相互銀行は、資金量は九〇四億円から二五六二億円(二・八倍)へ、融資量は八一三億円から二二〇二億円(二・七倍)へ、当期利益金は二億一四〇〇万円から四億九〇〇〇万円(二・三倍)へと増加した。資本金は四十二年十二月に六億円増資して一八億円となった。従業員数は二三九五人から二〇九八人へと推移し、店舗数は全体で八四から八二へと微減したが、札幌市内店は逆に一八から二一へと三店舗(新琴似、北栄、澄川)増えている。四十二年十二月には初の道外店舗として東京支店(台東区)が開設された。四十六年十一月、地域のニーズに合わせるため、すすきの支店の夜間営業が開始された。また四十七年には「総合口座」の取り扱いが開始され、四十九年には札幌市内全店でオンライン取引が開始されている(北洋相互銀行50年史、北海道の企業、北洋銀行経営管理部広報課)。
 北海道相互銀行は、資金量は三三七億円から一三一二億円へ三・九倍に、融資量は二九〇億円から一一〇三億円へ三・八倍に、それぞれ増加した。資本金は六億円から四十一年十二月に二億円を増資して八億円となった。店舗数は五五から新設と廃止を繰返し、結局五八へと微増したが、この間四十六年九月、新宿に東京支店を開設し、東京進出を果たしている。しかし、東京支店の新設にあたっての当局の認可条件は倶知安支店、余市出張所の廃止であった。従業員は一〇七九人から一〇七一人へとほぼ横ばいで推移した。当期純益金は一億六七〇万円から一億八四五〇万円に増大した。
 銀行大衆化の中で、消費者金融では三十八年四月の「ピアノローン」を皮切りに、昭和四十年代以降、電気機器、自動車など各種耐久消費財を対象とした提携ローンが急伸し、四十七年四月からは住宅ローンも本格的に取り扱われるようになり、以後、住宅ローンは個人融資の主流となった。この間、四十四年五月にはHCBと業務提携してクレジットカード業務も開始された。また四十八年二月に「総合口座」がスタートしたが、四十九年八月の普通預金オンライン体制移行後に本格的な進展をみた(北海道相互銀行20年史、同30年史)。