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市内地域間の物価格差もさることながら、札幌は昭和二十年代の終わりごろから「全国一物価の高い」などといわれ、昭和二十八年六月の都市別一カ月間の総消費支出金額でも、全国都市平均が二万五二九円、東京が二万四二八〇円であるのに対し、札幌は二万四九七二円で、他都市と比べても生活費のかかる都市といえた(石井清 札幌市中央卸売市場設置について さっぽろ経済 昭29・5)。そこで需要と供給を円滑にし公正な取引を実現して物価問題を解決すべく、中央卸売市場が開場されることとなったが、三十一年着工し、三十二年十月一日には市営の札幌魚菜卸売市場が廃止されるあいだにも(昭32事務)、桑園から市場への引き込み線をどうするか、荷役・運送・売店などの業者の選定、製氷施設の経営主体をどうするか、など開場にむけて解決しなければならない多くの課題があった。
そのなかでも特に問題となったのは、卸売業者の選定である。当時農林省は、卸売業者の乱立は市場の経営内容を悪化させるとして、「卸売業者は取扱品目の部ごとに一市場一社」という方針を打ち出していた。しかし札幌市内には青果物問屋組合に加盟している卸売問屋が一三軒と「円山朝市」、二十四年四月に開場した白石農協の直営市場(上白石市場)があり、水産物関係でも問屋が六軒、市場が三軒あった(道新 昭33・5・5)。したがって中央卸売市場が設置されるとなれば、これら卸売業者の統合が必要だったが、卸売市場の設置は既存の卸売業者をつぶすのが目的ではなく、またこれらをいきなり一社にするのは無理があるとして協議を重ねた結果、三十三年二月十四日第一〇回中央卸売市場開設審議会で、できるだけ「単数に近い複数」でいくという結論に達した(道新 昭33・2・15)。
しかし北海道博覧会にも使用するため三十三年五月に建物が完成し、十一月一日の開場予定日をむかえても、卸売業者の問題は解決されなかった。市場に参加を表明した卸売業者は、水産物四社、青果物一三社にのぼり(道新 昭33・8・30)、新会社に統合される場合の持株比率や売掛金の補償などの問題が未解決だったからである。しかし十一月二十六日になってようやく水産物部門の新会社の持株比率が決定し(道新 昭33・11・27)、新会社には〓札幌魚卸市場、〓高橋水産、〓高田商店・〓石田商店・〓佐藤商店の三社が合併して設立された大協水産、〓富樫商店の四社が参加することとなった。ところが翌三十四年一月、高橋水産が卸売業者を一社とするのは独占禁止法違反の疑いがあると公正取引委員会に持ち込んだことから、再び複数の業者が参入する可能性がでてきた(道新 昭34・2・15)。そのため四社を一社に統合する案は流れ、九月にはとりあえず参入業者を二社とし、〓札幌魚卸市場と大協水産が合併した新会社と高橋水産が市場に参加し、富樫商店は付属営業業者として市場に入るが、魚の卸売も場外で続けることとなった(道新 昭34・9・1)。〓札幌魚卸市場と大協水産が合併した新会社の社名は、〓札幌中央水産株式会社と決まった。
一方その間、青果物部門でも新会社の設立をめぐって紆余曲折があったが、三十四年八月二十四日の青果業者全体会議で新会社の発起人代表が決定し、一本化のめどが立った。新会社の発起人は、勇崎恒次郎商店、〓札幌果実株式会社、株式会社〓黒田本店、〓札幌青果株式会社、株式会社〓池端商店、札幌丸協青果株式会社、「円山朝市」の札幌地区青果物農業協同組合で、その他〓新豊商店、〓伊東商店、第一青果株式会社、北斗商業株式会社、株式会社〓紀の国屋本店、小樽青果株式会社札幌支店、株式会社〓柄沢商店の一四社すべてが参加して、〓札幌青果株式会社を設立することになった(札幌市中央卸売市場二十五年史・青果編、札幌商工業界便覧 昭31)。十一月には仲買人も決定し、また青果物部門の卸売業者は一社となるため、こちらも独占禁止法違反の可能性が指摘されたが、公正取引委員会は違反ではないと結論し、同年十二月六日、全国で一七番目、道内初の中央卸売市場が開場し、青果物部門の業務が開始された。翌三十五年二月二十九日には小売人と仲買人、仲買人と卸売人の間の代金取り立てや支払いを代行する札幌青果物精算株式会社が設立され、代金決済の円滑化が図られた。
また水産物部門も、三十四年末には札幌水産物商業協同組合が仲買人制度に反対して小売業者の市場でのセリへの直接参加を要求するなど、細かな問題はあったが、翌年一月二十三日には仲買人四二人が決定し、精算会社も設立され、二社の卸売業社が参入する点を農林省が特例措置として承認していたことから、三十五年四月一日業務が開始された。