昭和三十一年七月に通産省が実施した商業実態調査によると、札幌市内の商店数は五五三五軒で、一九世帯につき一軒の割合で商店があった。また明治創業の老舗は九五軒、大正創業は一五六軒、残りは昭和で、全体の七八・二八パーセントが戦後の創業であった。業種別にみると、小売業では飲食料品小売業が二二七二軒で最も多く、織物、衣服、身回り品の小売業五九二軒、家具、建具、什器の小売業三三六軒、車両小売業が一三八軒、デパート四軒、その他小売業九八四軒となっていた(道新 昭32・3・13)。それに対して卸売業は、一般卸売業一一九七軒、特殊卸売業一二軒の計一二〇九軒だったが、二十七年の調査では九二四軒だったことからすれば、実に三割の増加であった(道新 昭32・5・9)。また三十一年の月間販売額も一三九億一五〇〇万円で、これを卸売業者七〇二軒、月間販売額六一億九〇〇〇万円の小樽と比較すると、業者数にして二倍弱、販売額にして二倍以上の差がみられた(札幌市経済振興対策中間答申書 さっぽろ経済58号)。
このように昭和二十年代の終わりごろから、小樽に代わって札幌が北海道経済の中心としての地位を固め、(道新 昭32・5・9)その傾向は卸売業で顕著であった。一方小樽企業自体の札幌進出も加速し、「樽僑」(道新 昭36・12・26)などという言葉も生まれた。三十五年札幌商工会議所が行った調査によると、札幌にある支店、出張所は約一六〇〇で、そのうち道外に本店のあるものは八四・三パーセント、道内に本店のあるものは一五・七パーセントで、道内に本店のある二〇九軒のうち、小樽の支店や出張所を札幌に移したものは三五軒にのぼったが、一方小樽企業で札幌に進出したものも七三軒あり、その積極性がうかがえる(道新 昭35・9・11)。三十六年九月二十五日には、小樽水産物卸売協同組合が札幌の業者をもまきこんで札樽市場協同組合を結成し、札幌中央卸売市場正面に卸売市場を開設した。中央卸売市場が開設される以前には小樽に集中していた江別、岩見沢、滝川、砂川方面の小売業者が、卸売市場開場とともに札幌でストップしてしまったことから、商権維持を図るための進出であった(道新 昭36・9・25)。また小樽商品取引所も取引不振を挽回すべく札幌に移転し、北海道穀物商品取引所(大通西5)と名を改め、三十六年五月一日から取引を開始した。
一方札幌でも、本州や小樽からの業者進出がさかんになってくると、問屋が市内各地に分散していること、業種内での連帯の希薄さなどの問題点が意識されるようになり、地方の小売業者にとって、小樽の仕入れの利便性は依然として有効であった。そこで市内に拠点をもつ卸売業者は、道内小売業者の結びつきを強めるべく、三十四年九月三~五日にかけて第一回札幌総合卸見本市を開催した。また特に繊維卸売業に関しては、戦前と同様、依然として小樽が優位に立っていた(道新 昭36・2・8)が、札幌市内の繊維卸売業者は三十六年二月九、十日第一回札幌春の繊維連合卸見本市を単独で開催し、勢力拡張を図った。また問屋の市内分散を解消し、経営合理化をはかるべく、業界の集団化も計画されるようになり、四十年には他の業種に先がけて札幌繊維卸センターが北六条東五丁目の帝国繊維札幌工場跡地に開設され、これについで、金物、靴、医療、化粧品などの卸売業者からも隣接地に卸センターの建設計画がもちあがった(道新 昭40・7・9)。