その二は、食糧難解決のための肥料需要の急激な増大であった。原料の硫化精鉱が無いために休業に陥っていた砂川の硫安製造工場(東洋高圧工業株式会社北海道工業所)への原料供給が強く要請されていたのである。ちなみに一九四七年版『北海道年鑑』は、豊羽鉱山について、「特に硫安生産の原鉱自給の見地から復旧をつよく要望されている」として、二十二年六月十日現在の全道における一月当り硫化鉄処理能力と硫化鉄鉱生産能力について検討している。その結果、処理能力は東洋高圧(五六二〇トン)日産化学(六〇〇トン)をはじめ総計七二二〇トンであるのに対し、生産能力は幌別(八〇〇トン)、新下川(六七五トン)、手稲(一四五トン)など合計一八七〇トンに過ぎず、毎月五〇〇〇トン以上が不足していた。不足分は花岡鉱山(秋田)からの移入で賄ってはいるが、「豊羽が復旧すれば丁度これだけを供給し得るのであって、その量は東洋高圧の使用量を丁度賄うに足りる」と、同鉱山の再開発への期待を述べている。
こうしたなかで、二十二年十月、北海道議会の農業、畜産、商工の各委員によって豊羽鉱山の復興に関する検討が開始され、翌十一月には豊羽鉱山復興委員会(委員長 道議吉野恒三郎)が発足し、日本鉱業株式会社(以下、日鉱)との仮協定が締結されている。日鉱としては、当初、終戦後の事業再建のための重点事業所として、上北、花輪など二十七の鉱山、日立、佐賀関、尾小屋の三製錬所、船川製油所、など計三十一事業所を上げていたが、豊羽はその中に含まれてはいなかった(日本鉱業株式会社五〇年史)。しかしその後、日鉱が新会社設立に動いたのは、豊羽鉱山復興委員会の要請を受けて、「①現地諸施設の朽廃を防げる②将来の見通しがある③地下資源の開発に資しうる④新会社の経営によれば、鉱害問題等は地元で円滑に処理できる」等と判断していたからである(豊羽鉱山株式会社十年史)。
二十三年二月、「豊羽鉱山復興計画書」が成り、それに基づいて同年十二月「豊羽鉱山株式会社設立委員会」が発足し、翌二十四年八月、北海道議会は一〇〇〇万円の豊羽への出資を可決するという経過の中で二十五年六月二十八日、「豊羽鉱山株式会社」の設立登記を迎えるのである。国策のアナロジーで道策会社といわれた所以がここにある。そして豊羽鉱山株式会社は同年八月一日付けで日鉱との間で正式契約を締結し、豊羽鉱山の事業一切が継承された(日本鉱業株式会社五〇年史)。
また同時に、鉱業権は両者共同となった。設立当時の資本金は六〇〇〇万円、借入金は二億五〇〇〇万円であった(豊羽鉱山三十年史)。
写真-7 豊羽鉱山 選鉱場全景