昭和二十三年「三月闘争」以降も、官公労組合は夏季手当や職域内条件改善闘争を継続し、中でも国労道地評は「賜暇戦術」などを強化した。全官公も給与改定要求を強めていた最中の七月三十一日、政府はGHQの指示に応じ、公務員や公共企業体労働者の争議行為を禁止する「政令二〇一号」を公布し、即日施行した。ストライキ権剝奪に反発した国労道地評の政令反対闘争声明に対して、札幌鉄道局は「職場離脱者即懲戒免職」を表明したが、やがて道内各支部・分会では青年労働者を中心に職場「離脱者」が続出し、各地で事実上のストライキが続発した(資料北海道労働運動史)。
国労苗穂工機支部(二八八三人)も七月二十九日、局側から「政令二〇一号により従来の如き団交は拒否する」との通告を受け、就業時間内職場大会で旋盤職場の残業を拒否した。さらに、八月三日の全面残業拒否を機に十月末までに六二人が職場を離脱するなど、札幌鉄道局管内では十月末までに離脱者累計七九九人、復帰者三一八人、検束者が三五六人に達し、その結果四五九人が免職となり、三一八人が減俸処分を受けた。政令二〇一号反対闘争に同調した全逓も、八月から九月にかけて道内で職場離脱者九九人、政令違反逮捕者九二人、検束五七人を出し、八七人が免職となった(同前)。かくして国労、全逓の夏季闘争は、スト権と団交権を失い、多数の処分者を出したのみで何ものも得ることなく終息し、官公労組合は運動の戦術転換を余儀なくさせられた。