北海道総合開発計画の一環として、二十五年に開設された北海道立札幌医科大学は、二十年四月一日創立した北海道庁立女子医学専門学校を母胎とした。
女子医専は日中戦争以来、多くの医師が軍医として召集され手薄となった国内の保健・医療面の担い手として、新たに出された女医養成方針により、昭和十九年十二月、修業年限四年制で設置認可となった。校舎は北星高等女学校(南5西17)を強制借り上げし、北海道社会事業協会附属札幌病院を同校附属病院とし、七月一日開校式と入学式を行った。しかし間もなく敗戦となった。
二十二年の学制改革により、医学校は医科大学のみを認め、養成専門学校は廃止すると決定したことから、同校は二期生を最後に二十二年から生徒募集を中止し、二十六年三月二十日に第二期生三〇人の卒業式をもって終校した。この間二十五年には単独で開設認可された札幌医科大学第一期生が入学、新制医科大学第一号としてスタートした。
札幌医科大学は、開学当初入学定員四〇人でスタートしたが、内容や設備の充実とともに逐次定員が増加され、二十九年以後入学定員一〇〇人・総学生定員六〇〇人になり、三十一年には大学院医学研究科を設置、研究機関として「附属がん研究所」「附属臨界医学研究所」を開設した。また、同大にはアメリカ留学経験者が多く、四十三年には胸部外科教授・和田寿郎により日本で最初の心臓移植手術が行われたが、移植を受けた患者は死亡し、脳死判定や倫理観をめぐって以降、社会に新しい問題を提起していくことになった(札幌医科大学開学50年・創基55年史)。