GHQの指令により戦時統制団体・北海道医師会札幌支部も解散を命じられ、新しい医師会を設立することになり、二十二年八月に設立総会を開催した。しかし戦時中の日本医療団・大政翼賛会等の役員経験者の役員就任は好ましくないとのサムス勧告により、再度の役員選出を行った。敗戦直後のインフレは激しく、薬代も保険請求の実施前と後とでは二、三倍に跳ね上がり、社会保険は支払われたが、国保の支払は六~十二カ月延ばされて、当時の金額で六〇〇〇万円が棚上げされたという。このことから医療費値上げの健保闘争運動が起こり、以降三十六年二月には、プラカードを掲げての市中デモ行進や全国一斉休診を行うなど、診療費値上げ要求をめぐる医療政策運動が盛んになっていく(北海道医師会史、道新 昭36・2・18)。
三十六年五月、地域社会活動の一環として休日における急病対策のため、自発的に各科を網羅した救急当番医制度(九時~午後五時)を全国で初めて発足させた。三十八年には交通事故多発に対応して、外科医による夜間救急の年中無休輪番体制を敷いた。夜間の内科・小児科急病対策として夜間急病センター開設に向けて四十三年から準備に入り、医師会館新築(大通西19)と、市医師会看護学校の整備(准看護学校の他に正看護学校開設)などの複合案による「夜間急病センター」の設置が実現したのは四十六年十二月で、非公式による診療を開始したのち、四十七年一月に正式オープンした(札幌市医師会)。